2018年11月30日金曜日

2018.11.30 測量野帳を使い終えた

● ずっと96枚のノートを使ってきた。1冊のノートを使っている間は,同じノートに書いた自分の文章を読み返すことが否応なくある。使い終えて書棚に置いたノートを読み返すことは,ぼくの場合はない。
 だから厚いノートを使った方がいいと思ってきた。1冊のノートを使う期間が長くなるからだ。その分,前の文章を読み返す機会も増える。

● 測量野帳は40枚。今月21日に使い始めて,今日,1冊を使い終えた。ちょうど10日間。
 薄いことによるデメリットは特に意識できていない。次のノートに移ったときに思うのかもしれないけれども,意識しないままではないかという気もする。

● ということは,同じノートを使っている間は読み返すことになると思っていても,じつはあまり読み返していなかったのではないかということだ。
 もしそうなら,薄いノートの方が当然軽いわけだから,軽い方がいいんじゃね? ということになる。

● さて,明日からは何を使おうか。もう1冊同じ測量野帳のセ-Y21Nを使ってからダイスキンに戻ろうと思っていた。今の調子でいけばダイスキンも1ヶ月以内で使い切れるはずだ。
 測量野帳はこの1冊でいったん終わりにして,以前ダイソーで買ったCampusもどき(32枚のA6ノートが3冊で100円というやつ)をシステミックに挟んで使ってみようか。
 先日,無印で買った30枚のA6ノートでもいい。

● 正直なところ,わずか10日間でも測量野帳にちょっと飽きがきている。不満はまったくないのだ。ないのだが飽きる。どんなノートでもこれがある。
 だから,ダイソーのCampusもどきも3冊連続で使えるかどうか。途中でまた測量野帳を挟むかもしれない。 

● というわけで,どうしようか。まだ決めかねている。

2018年11月27日火曜日

2018.11.27 目先を変えるって重要?

● ノートに書く量ということに限ってみても,波がある。「開きやすいノート」に替えてから大きな波が来ている。測量野帳にしてからもそれが続いている。
 ノートを替えたから波が来たのか。替えなくても来たのか。

● 波の具合は百パーセント内発的なものではない。環境の影響を受ける。その限りで波は操れるものだ。
 が,環境をどういじってみても,如何ともしがたいものでもある。その限りで波は操れないものだ。

● しかし,“書く”なら,調子が出ないときは,ペンやノートを替えてみるという一手は指してみるべきだと思う。巧く行くかどうかはわからないけれども,可能性はあるわけだから。
 「開きやすいノート」に替えて筆記量が増えたのは,たぶん,替えたこと自体によるものだ。替えると変化がある。その変化を書いているわけなのだが。いちいち書くまでもないだろ,そんなもの,という意見もあるだろうけどね。

● ノートが変わればいくつかの筆記具も試してみたくなるし,それによって目の前の風景が変わる。見える風景が変わると,書く量を増やす効果がある。カフェに行って書くと,何だか知らないけどたくさん書けるのと同じ。
 逆にこのまま測量野帳を使い続けると,ダイスキンを使い続けたときと同じように,まったく書かない日が続くこともあるようになるのだろう。

● 実際の話,そうした変化によって増えた分というのは,どうでもいい内容ばかりになるのかもしれない。ぼくの場合はどうやらそうだ。
 だから無意味かというと,そうとも言えない。少なくとも,マンネリが途切れる。ノートを使うというそのことに勢いがつく。気分がよくなる。その効果は無視できない。

● どうでもいいことが,そうではないものを引っぱってくることもあるかもしれない,と思う。自分の中に眠っていたものが,どうでもいいことのどこかに付着して表に出てくることもあるのではないか。
 その眠っていたものもさほどのものではないのだと思うけれど,それを引きずり出せたときの快感というのはあるように思う。

● だから,時には目先を変えた方がいいのだろう。安定は停滞につながるという言われ方は,こうした些細なところでも成立するのではないか。
 ぼくの場合は,比較的初期に,ダイスキン+Preppy というスタイルでサッと安定した。が,いったんできあがった安定は壊した方がいいのだろう。で,別の安定を目指す。その繰り返し。

● 安定がもたらす実りというのは,あまりないのかもなぁ。
 だから,ダイスキンを大量に買いためて在庫を作ってしまったのは,あまり良くなかった。あの頃,ダイスキンはいつまであるかわからなかった。ので,見つけると買っていたんだけど,それでもそうすべきではなかったか。
 制限が安定を妨げてくれる。その制限は善であるのかもしれないのだ。

● と,些細なことを大げさに語ってしまった。目先を変えてみるって,たんに方法論の問題だと思う。それ以上の意味などあるわけがない。
 が,方法が自分の見える世界を決めるかもしれない。

2018年11月25日日曜日

2018.11.25 池袋の東武百貨店の7階

● 池袋東武の7階にある旭屋書店と伊東屋を覗く。覗くだけで買うつもりはない。すでに文具は満ち足りている。買うとすれば,衝動買いに限られる。

● まず,旭屋書店でも手帳売場が目立つ。その中でも最も目立つところに置いてあったのが,高橋のTorinco。いくつかのパターンがあるようなのだが,メインはたぶん,ほぼ日タイプの1日1ページ。
 ほぼ日手帳(のオリジナル)はカバーを付けて使うことになるだろうから,それ込みで考えると,こちらの方が圧倒的に安いんだけども,いわゆるトンガリがない。堅実ではあるんだけれども。
 パタンと180度開くというわけではないので,このあたりを消費者がどう判断するかかな,と偉そうに言ってみる。

● おそらく,ほぼ日手帳からこれに乗り換える人はいないだろう。同様の理由で,EDiTからの乗換え組も出ないだろう。
 となると,新たに1日1ページ手帳に参入してくる人たちをどれだけ捕まえられるかという話になるんだろうか。

● おそらく,そうではないのだと思っている。ぼくは手帳は1冊に絞る。ずっとそうしてきた。複数の手帳を使い分けるという発想はまるっきりない。
 ところが,世の中にはそうじゃない人たちも多いらしいのだ。2冊といわず4冊や5冊も使う人が,けっこういるらしいのだ。そういう人たちの中に,もう1冊加える人がいるんだろう。

● Googleカレンダーが出て,スケジュール管理はデジタルできるようになった。誰もがスマートフォンを持つようになったし。
 にもかかわらず,紙の手帳の売行きは衰えるどころか増加傾向だと聞く。紙手帳のユーザーの絶対数が増えているのではなくて,複数使いが“複数”の数を増やしているからではないかと見ている。

● 伊東屋。何度かはここで買っている。けれども,ぼくは伊東屋の顧客ではない。
 伊東屋って高級品を売りたいと思っている感が濃厚。万年筆とかシステム手帳とか。独自ブランドのROMEOもそうだし。ま,どこでも利幅が大きい高級品を売りたいはずだけれど。

● 右は800本の限定生産の万年筆。1本が15万円。もちろん,ぼくには買えない。工芸品なんだよね。万年筆は使ってナンボなんだと思うんですよ。これ,飾っておきたくなるっしょ。使うのを躊躇させるようなものはダメっしょ。
 そう思ってしまう輩は,どうもなぁ。

● 左はギフトのパンフレット(の表紙)。文具をギフトに使ってもらいたい。それはサプライヤーとしては切に思うものだろう。高額商品が売れるから。
 私の新しいスパイス,彼の仕事時間を豊かに,大人になっていくあの子に,お散歩好きなあの人に,の4部構成。女性に宛てている。ギフトって女性が主導権を握っているものね。

● 伊東屋オリジナルの測量野帳もある。380円。そのオリジナル分に差額180円を払えるか。LoFtの80円でも払えないと思ったのだから,180円を払えるわけがない。
 素の状態の完成度が高いこともある。あの深緑色がすなわち測量野帳だ。余計なことをするなと言いたい気持ちもある。
 ところで,LoFtでも伊東屋でも,オリジナル仕様になっているのはSKETCHのみ。一般ユーザーが使う測量野帳はSKETCHが多いのだろう。3mm方眼が好まれているんでしょうね。

● デザインフィル社のシステム手帳PLOTTERにも注目。リフィルだけでもノートのように使え,使い終えたら切り離してバインダーに綴じておくことができる。便利っぽい。システム手帳に綴じた状態で使うには,何といってもリングが邪魔。これはそこを回避する方法のひとつを提示している。
 このリフィルに合うカバーは必ずあるはずだから,数種のリフィルを挟んで持ち歩くようにすれば,トラベラーズノート的に使えそうだ。
 って,デザインフィルってミドリの系列会社なんですね。トラベラーズノートとは兄弟の関係だ。

● が,買わない。第一には高いから。惜しげなく使う度胸がないのだ。惜しんでしまうと思う。
 ノートを惜しんで使うのは,使い方として最もまずいやり方。ノイズを載せるのを怖れてはいけない。そのためには安いノートがいい。
 というわけで,何も買わないで下りのエスカレーターに向かったのでした。

2018年11月24日土曜日

2018.11.24 ハードカバーの“紳士なノート”

● 自治医大駅前の“うさぎや書店”の文具売場にこういうのがあった。モレスキン的な“紳士なノート”。前からあるものだろうけど。
 最も小さい判型のものが1,800円。96枚。どんな人が買うのだろうと思った。Campus(A6 48枚)なら同じ店で110円で売られているのだ。

● 清水の舞台から飛び降りるつもりで買おうかと思ったんだけど,横罫がなかったのでやめておいた。もちろん,買わなくてよかったんだけどね。
 モレスキンとは真逆の高品質であることは使わなくてもわかるんだけども,このノートとCampusの間に,1800:220ほどの品質の違いがあるとは思えない(そういう直線的な比較に,意味はあまりないんだろうとは思うんだけどさ)。

● ましてダイスキンなら96枚で100円なのだ。こういう高価なのを買う人って,あまりノートを使わないんだろうかなぁ。
 ガンガン使う人はCampusを買うよねぇ。いわゆるできる人は,ガンガン使う人の中にいるはずだ。できる人はCampusを使っていると言われることがあるのは,そういうカラクリによるのではないかなぁ。
 もっとも,ガンガン使うからといって,そうした人のすべてができる人ではない。くれぐれもそうではないことにご注意。

● このノート,栃木県内の他の文具店ではあまり見かけないんだよね。この一帯は医者の居住率が高いんだろうね。それがこういう高級ノートが置いてある理由だろうかな。
 違うような気がするな。医者ってそういうビヘイビアには走らないような気がする。
 医者の子どもが買うんだろうかなぁ。ようわからん。

● ぼくはやっぱり大衆品がいいなぁ。今使っている測量野帳は200円だよ。Amazonでまとめ買いすれば135円だよ。充分に書きやすいよ。

2018年11月23日金曜日

2018.11.23 ノートカバーを見る

● 落合書店宝木店に来た。覗くのは書籍ではなくて,文具売場の方。
 ここの文具売場は,宇都宮ではジョイフル本田,上野文具本店に次いで,3番目に広い売場面積を誇るのではないかと思う。宇都宮LoFtの文具売場より広いような気がする。

● といって,欲しいものはないのだ。ペンもノートも在庫が充分以上にあるからだ。加えて,ペンはプラチナのPlaisir1本であらかたすむのだ。
 買いに来たのか冷やかしなのか。店員には一発でわかるものだろう。ぼくは冷やかしなんだよね,基本。

● ノートカバーに注目した。ほぼ日手帳カバーを含めて,ノートカバーは3つ持っている。ノートはA6しか使わないので,同じサイズのカバーが3つあるということ。
 いや,2つだった。コレクトのカバーは表面がボロボロと剥がれるようになってしまったので,先日,処分したのだった。

● 2冊挟めるタイプが主流になっているようだ。ノートと手帳を一緒に持ち歩けるということだろう。その筆頭はコクヨのSYSTEMIC。ぼくもすでに持っていて,いずれCampusとマンスリー手帳をSYSTEMICに入れて使おうと思っている(使わないかもしれないが)。ノートと手帳に関しては,それが最終スタイルだとイメージしている。
 同じようなものがコクヨ以外からも出ている。店頭で見かけたのはアピカとパイロット。

● ノートカバーの難は,表紙を挿し込む構造のため,挿込口が段差を作ってしまうこと。ここをどう解決するか。知恵を絞った製品が出ている。
 SYSTEMICはノートの表紙全体を挟むことによって段差を作らなくするという発想で対処している。アピカも同じ対応。

● アピカ製品もよく考えられているけれども,コクヨのシステミックに一日の長があると思える。が,好みの問題の範疇か。
 SYSTEMICは挟んだあと,それが下敷きにもなる。表紙が硬いから,ハードカバーノートと同じで,立った状態でも書くことができる。あまりやりたくはないが。
 アピカではそれは難しい。その代わり,カバーを付けた状態でも柔らかい。重量も増えない。

● SYSTEMICは質実剛健の気風あり。男性的。だからこそ女性に使ってもらいたいと,ぼくなんぞは思う。ゴムバンドも付いているから,通勤や出張の鞄に突っこんでおいても安心だ。
 アピカは嫋やかな感じ。女性的。だから男性も使った方がいいとはあまり思わない。これはやはり女性が使う方が絵になる。
 以上を要するに,女性の方が選択肢が多い。ノートカバーに限らないでしょうね。

2018年11月21日水曜日

2018.11.21 罫線について

● チアックを買い占めることができなくてよかったと思う理由のひとつは,それが方眼だったことだ。方眼ノートも何冊か手元にあるんだけど,使わないで残ってしまっている。
 ノートには文章しか書かないわけなので,圧倒的に横罫が使いやすいのだ。

● 横罫が最もあるふれている。ありふれたものに対する批判は必ず生まれる。思考が罫線に縛られて直線的になりがちだ,広がりを欠くようになる,とかね。
 で,今は方眼礼賛が流行中。方眼に縛られるということはないのかい? 方眼を使うと思考に広がりが生まれるかい?
 自分は方眼が好きだとか,ダイスキンに方眼があればとか,方眼の流行中にそんなことを言っているのは,私はバカですと言っているようなものだ,と感じたりもするんだよね(→おまえに言われたくねーわ)。

● 思考を縛るという話に戻ると,もしそういうことがあるとするなら,その悪さをするのは罫線の有無や種別ではなくて,線の印刷の濃さだと思う。
 ロディアの方眼線で方眼のマス目に囚われないで文字を書ける人なら,横罫か方眼かにこだわる必要はそもそもないのではないか。罫線を無視できる人だからだ。
 総じて神経質になりすぎているのではないか。ダイスキンの罫線は濃い方に属するが,昔のノートはもっと濃かったような気がする。

● 今のノートはどれも罫線は薄くなっている。色も目立たないグレーっぽいのが多くなった。昔は青が多かったように記憶する。
 そうなると,罫線を気にしても仕方がないわけだが,ぼくはやはり横罫がいいな,と。同様に方眼がいいという人がいてもいいわけだ。

● が,それにしたって方眼が幅を利かせすぎているのではないかと思ってしまうんですよ。方眼を使うとできる人に見えるとか思ってない?
 心頭滅却して,できる人に見せようとする欲を消した方がいいよ。どうせ見えないんだから。

2018.11.21 コクヨへのリスペクト

● 子供の頃,コクヨは大衆品の代表だった。最も多く使われていたから。何せ,皆,田舎のよろず屋で買うんだから同じものになるのだ。そのよろず屋で扱っているのがコクヨしかなかったんだから。
 原稿用紙もレポート用紙もコクヨ。だから,コクヨじゃないものを使っている子がいると,おまえ,すげーな,となった。

● 大人の世界でも,原稿用紙についてはコクヨを軽んじる風潮が残っているのではないか。満寿屋の原稿用紙じゃないんですか,的な。満寿屋や相馬屋も今ではだいぶポピュラーになっているようでもあるが。
 今はプロの作家でも,パソコンで原稿を書いている人が多いだろうから,原稿用紙はあまり使われなくなっているのだと思うけど,もし,ぼくが今,原稿用紙を必要とするのであれば,ありふれたコクヨを選ぶだろう。
 原稿用紙なんて何でもいいからじゃなく,コクヨへのリスペクトゆえだ。満寿屋のものがよりいいのかもしれないけれども,コクヨにすると思う。

● 便箋もそうだ。コクヨの「書翰箋」が広く使われていた。よろず屋にはそれしかなかったし,安かったからだ。
 だから,コクヨの便箋は大衆品=安物,のイメージがあった。大切な人に手紙を書くときには,もっと高くていいやつを使うべきだよな,などと生意気にも思ったものだ。
 が,そのコクヨの“安物”に何か不都合があったかといえば,特になかったと思う。

● 今でも状況は基本的に変わるまい。コクヨ製品は無個性の代名詞。ユニークな人は,小粒でもピリリと辛い,知る人ぞ知るの製品を使っている的な思いこみがあると思うし,自分は違いのわかる男(女)だからこれを使っているよ,と言いたい人もいるだろう。
 が,その思いこみこそが無個性というもの。大衆品,一般品として磨きをかけ続けてきた(であろう)コクヨの企業努力を,ぼくはリスペクトしている。

● ありふれたものを使って個性的な成果を生みだすのが,何といってもカッコいいではないか。プロという感じがするではないか。
 ノートでもペンでも,それ自体がユニークなものを使っている人って,それで満足してしまって,そこで終わっていると感じられる人が多くないか。もっと辛辣にいうと,自分は平凡だとどこかで自覚しているから,道具で自分に付加価値を付けようとしているのではないか。

● コクヨへのリスペクトというときに,もうひとつ感じることがある。自社が提供している製品に対する責任感のようなものを感じることがある。たとえ儲からなくても,需要がある間は供給をやめないという。
 綴じ紐の供給をコクヨが続けていることを知ったときに,そう思った。綴じ紐を今も使っているところは,そんなにないのではないか(そうでもないのかね)。さほどに儲かっているとも思えない(そうでもないのかね)。
 が,今でも一定の需要はあるのだろう。昔,その需要を見て取って製品を投入した以上,需要がある間はユーザーに不便をかけないという覚悟がほの見えるような気がする。ほめすぎだろうか。

2018.11.21 測量野帳を使ってみよう

● 昨日で「開きやすいノート」を使い終えた。では,次は何にしようか。続けて「開きやすいノート」を使おうか,ダイスキンに戻ろうか。
 測量野帳を使ってみることにした。ダイスキンじゃないノートを1冊使って,ダイスキンに戻らないのは,今回が初めてだ。ダイスキン離れ? いやいや,いずれはダイスキンに戻ると思う。

● 測量野帳はLEVEL,TRANSIT,SKETCHの3種類。通常版の他に耐水版や再生紙を使ったものがあるが,コクヨのサイトを見る限りでは,LEVELが最も売れているらしい。再生紙版はLEVELしかない。
 今回使うのは,その再生紙版のLEVEL,セ-Y21Nだ。165mm(縦)×95mm(横)×6mm(厚さ)で40枚。3点糸綴じ。

● ダイスキンを揶揄するのに,1ページ目と最終ページは,扉との糊付け部分がたっぷりあって,事実上使えないという言い方がされる。が,それはモレスキンもそうだし,この測量野帳も同じだ。「開きやすいノート」もそうだった。
 糸綴じのノートはすべてそうではないか。いや,無線綴じのCampusだって1ページ目と最終ページは使う気にならない。

● 再生紙使用ゆえ,「筆記具によってはインクがにじむ場合があります」との注意書きがあるのだけれども,万年筆(プラチナインクのブルーブラック)で書いても,滲みや裏抜けは完璧になし。快適に使える。
 再生紙でここまでの品質を確保するとは,さすがは王者コクヨ。しかも,「開きやすいノート」の紙よりも薄く,肌触り(?)もいい。

● シグノの0.38mmでも裏抜けの問題はない。ただし,シグノを使うと裏写りの問題が出る。
 普通に言われる裏写りではなくて,左ページに書いていると裏の右ページのインクを前のページに写してしまうのだ。万年筆で書いた方がきれいに使えるようだ。でなければ下敷きを使った方がいい。まったく現実的ではないが。

● LEVELだから左ページに赤の縦線がある。それは無視して,普通の横罫ノートとして使用する。それしかできないから。
 半月で使い終えるくらいのペースで書いていければと思う。頭の中にあるのものサッサと野帳に移してしまいたい。それがなかなかできないわけだが。

● この縦線を活かした用途を考えようとする人もいるだろう。その中からハッとさせるような使い方が表れてくるのだろう。その工夫がぼくには思いつかないわけだ。
 右ページにも1本縦線を引けば,枠が7つできる。見開き1週間のバーチカルスケジュール表になるだろう。が,手帳は別にある。
 縦線で区切られた枠を活かして家計簿にすることもできるだろう。が,家計簿をつけてお金持ちになった人はいない。

● そうしたありきたりの発想ではなく,もっと何かアッと言わせるような使い方はないものか。
 いやいや,ネットにはいくつもあるよね。そういうのを見て,なぜ自分はそれを思いつかなかったのかと思う。理由は2つしか考えられない。ひとつは,バカだから。もうひとつは,必要のないものだから。
 やはり,必要は発明の母なのだろう。小さな工夫もその多くは必要が生むものなのだろう。

● 使い始めたばかりなので,たしかなことは言えないんだけども,このサイズ,この軽さ,この頑丈さを愛でる人が多くいることは納得できる。
 なかんずく軽さだ。計測してみた。このセ-Y21Nは67g。無印良品版のSKETCHは71g。
 ちなみにA6ダイスキンは122gだった。昨日まで使っていた「開きやすいノート」はほぼ日手帳カバーを付けた状態で276g。軽さは正義だね。

● というわけで,数年前に買ったものの,使うのは初めての測量野帳。楽しませてもらいたい。

2018年11月20日火曜日

2018.11.20 「開きやすいノート」を使い終えた

● 使い始めたのは10月14日。38日間で1冊を使い切れた。最近にない快挙(?)。
 ダイスキンに比べれば同じ96枚でも筆記可能面積はだいぶ多い。にもかかわらず,短時日で使い切れたのは嬉しい。たくさん書いたということだから。書きゃあいいってもんじゃないでしょ,と言われればそれはそのとおりなんだけど。

● ノートを使うようになって数年経つけれど,過去のノートをあらためて読み返したことはない。“ギャッと叫んでロクロ首”になりそうなので。
 でも,この「開きやすいノート」は読み返すと思う。ブログのネタになりそうなことが,けっこうな数,眠っているような気がするので。ブログにできるものはブログの形で整理しておきたい。ノートはだしがらになるのが理想だ。

● 書けばいいというものではないとしても,書く量を増やすためにまずやらなければいけないことは,とにかくノートを開いて,右手にペンを持って書く姿勢を作ることだろう。
 そのままノートを閉じてもいいから,書く姿勢だけは作ること。できれば1行でもいいから書くこと。何か書き始めれば,案外次々に書けたりする。
 脳が先か指が先かの問題だ。脳にあることを指が文字にしていくのか,指が動きだすと脳がその後を追って動きだすのか。指が先という人がけっこう多いのではないか。だからまず姿勢を作ることが必要だし,役に立つのだ(と思いたい)。
 読書も同じだろう。読む量を増やしたければ,とにかく本を手に取ること。読まなくてもいいから,まずは手に取るというアクションを起こすこと。

● このブログの文章も,「開きやすいノート」に書いたことを書き写しただけのことが多い。だったら,最初からキーボード入力すれば無駄がないじゃないかと思うわけだけども,どうもそういう単純な問題ではないようなのだ。
 キーボードで打ち直すのは大した手間ではないし,その過程で文章の推敲もできる(推敲した結果がこれかよ,とは言わないでくれたまえ)。
 まずは手で書いた方がいいと思う。面倒でもまずは手で。それがなかなかできないわけだが。

● 最初にTwitterでツイートしたことをあらためて手で書くことは,特に億劫感が強くて,まずしないのだけれども,それもやった方がいいのかもしれない。
 それをすることによって,指先が脳の思いつきを広げてくれたり深めてくれたりするかも。
 脳を全面的に信用しない方がいいようだ。身体と脳は連動している。脳が単独で何かをすることを野放図に許しておかない。意外に大切なことかもしれないと思う。

● 使っている最中にダイスキンが恋しくならなかった。初めてのことだ。「開きやすいノート」は“私に書いて,書いて”と誘ってくるのだ。“私を触って”ってね。
 つまり,いいノートなのだ。価格も96枚で300円(A6)。気立てが良くて働き者。しかも健康で,多少手荒に扱っても病気になったりしない。
 現在は販売終了になっている。無印良品の店に行っても売っていない。あと4冊の在庫があるのだけど,こんなことならゴッソリと買いためておくんだった。

2018年11月19日月曜日

2018.11.19 手帳雑感

● 仕事を引退したら手帳を変えるつもりでいた。今使っているのは能率手帳(のシステム手帳版。BindexのNO.011)。引退後に使うのはA6サイズの薄いマンスリーを想定していた。百円ショップで売っているようなやつ。
 それをA6のCampusと一緒にSYSTEMICに挟んで使えば,手帳とメモ帳をひとつにできる。引退後はそのスタイルで行こうと思っていた。

● 引退すれば仕事上の予定は自動的に消失する。今でも仕事のために手帳を使っているとは言えない状態なのだが,引退後は完璧にそうなる。残るのはプライベートな予定だけ。ぼくの場合だと,コンサートとか映画とか。
 それらはたぶん憶えていられる。好きなことだから。あるいは,カレンダーに書いておけばいい。手帳を使うにしてもウィークリーは要らない。マンスリーで充分だ。

● が,実際に手帳を変えることなどできるのか。もう何十年も同じ手帳を使ってきた。長年連れ添ってきた古女房のようなものだ。
 仕事を離れたからもう必要ない,などと切り捨てることができるだろうか。

● 仕事を辞めた後も,BindexのNO.011を使い続けるかもしれない。ここまでのスペースがある手帳は明らかに要らない。
 が,それを言うなら,今だって要らないのだ。今だってすでにメインの用途はプライベートに移っているのだから。
 ということで,どうなるかわからない。楽しみなことだ。

● 書店に行くと,『Asscie 手帳フル活用術』という手帳ムックが平積みになっている。『Asscie』は年に1回,手帳特集を組んできた。それを集大成(あるいは取捨選択)したものだと思う。安いものだし,買おうかと思ったのだけど,買わないでいる。
 たぶん,すでに読んでいる(見ている)はずだし,Asscieだから仕事手帳の話で満ちているはずで,ぼくのように第一線からはすでに退いている者にとっては,場面が重ならないだろう。
 仕事から退いているというのをあまり行動変化の理由にしない方がいいとも思うのだが,手帳で細かいスケジューリングをすることはあるまい(今までもやったことがあったか)。
 
● 手帳の使い方は,これまで「ほぼ日」が提唱してきたのが本流であるべきだと思っている。愉しみとしての使い方。手帳で遊ぶということ。
 言葉を換えると,Instagramに上がっているような使い方。それに対して,ぼくは何度か揶揄する言い方をしてしまっているのだが(緩いだけの使い方とかね),結局のところ,そうした使い方ができるのを幸せというのだろう。

● 生産性を上げるための手帳術に没頭する時期があってもいい(というか,あった方がいい)と思うのだが,いつかは“遊び”に至らなければいけないものだろう。
 いつまでも生産性にとどまっていてはいけない。若いときから遊び一辺倒の使い方しかしていないというのも,何か違う気がするが,それはぼくが前世紀の時代風潮から自由になれないでいるせいかもしれない。

● しかし,ぼくがここまで言ってきたことは,つまるところ外部基準に依拠していて,常識の範囲にとどまっている。いい子の範囲内というか。ジャンプがない。新たな何ごとかを付加していない。
 そもそもが手帳本を買おうとしている時点でダメだよな,的な。人の経験知を参考にした方が効率がいいということはあるにしても,その効率を超えるような何かを持っていないとダメなのだろう。人の経験知など参考にならないくらいの,強烈な何か。
 すごい人は突き抜けているのだと思う。その突き抜けは勘違いによるものでいいのだ。勘違いでいいから,人の経験知など吹っ飛ばすような強烈な何かを持っているといい。正確に言うと,持っていると思い込めればいい。

● 教科書や参考書を求めているようでは二流どまりだろう。さらに敷衍すると,自己啓発書を読んでいるようなヤツはダメだろう。
 自分は二流どころか三流にとどまってしまった。それが老境にさしかかる年齢になっても変わらない。
 それがつまり,自分の器量というか排気量なのだ。器量や排気量は生まれつきのもので変えることはできない,とは思わない。思わないが,自分はこういうふうに来てしまった。こういうふうにしか来れなかったのかもしれない。

● って,話が手帳からずいぶん大きくなってしまったな。

2018年11月18日日曜日

2018.11.18 セブンイレブンの文具

● セブンイレブンの文具売場を覗くと,かつてあった“by LoFt”の表札(?)は消えているんだけど,“by LoFt”商品がまだ少しは残っている。
 この動きは店舗によって差があるようにも見受けられるんだけど,基本的にはセブンプレミアム商品に置き換えていく方針なんだろうか。

● セブンプレミアムのブランド構成がよくわからない。セブンプレミアム,セブンプレミアム・ゴールドのほかに,セブンプレミアム・ライフスタイルがある。
 文具や化粧品,シャンプーなどにこの“ライフスタイル”が付けられているんだけど,どういう使い分けをしているのだろう。ライフスタイルに絡むものは,セブンイレブンが扱っている商品のすべてだと思うのだが。

● セブンイレブン鹿沼上材木町店の文具売場には,“by LoFt”がけっこう残っている。が,“by LoFt”でも“セブンプレミアムライフスタイル”でも,ノートはほぼコクヨ製。コクヨにしたらどっちでもいいよってことでしょう。
 文具に関しては,メーカーがセブンイレブンに膝を屈する感はない。コンビニの販売比率があまり高くないのだろう。これからも高まる予感はしない。

● スーパーの文具売場も同様だ。文具に,は定価でいいから文具店で買うものという風潮があるように思える。実用品というより,嗜好品に近いものになっているんだろうか。
 ブランド品と似ている。どこで買ったかが重要,という。アウトレット店ではダメ,っていう。中身は一緒なんだからどこでもいいじゃないか,安い店で買えばいいじゃないか,が通用しない世界。

● でもさ,どこで買ったかが重要っていう姿勢には大衆性を感じるんですよ。それって,完全にブランド品に負けてるもんね。
 大げさに言うと,自分の美意識がブランド品に従属しちゃってる感じ。

2018年11月17日土曜日

2018.11.17 福田屋でLoFtと無印良品を覗く

● 相方のリクエストに応じて,暗くなってから福田屋(竹林の方)に来た。福田屋に来たからには,LoFtの文具売場を覗くことになる。
 LoFtの魅力って何なのだろう。値引きなしで売っているんだから,価格は他の文具店と変わらない。文具売場の面積は限られているのだから,圧倒的な品揃えというわけでもない(品揃えで勝負できるのは渋谷LoFtくらいだろう)。でも惹かれる。何となくキラキラした感じがするからかねぇ。

● 「ほぼ日手帳」はここでしか買えないからかもしれない(weeksは他でも売られている)。その「ほぼ日手帳」を中心に手帳を見て歩く。
 自分の来年の手帳はとっくに買ってるし,「ほぼ日手帳」のカバー・オン・カバーも先日買って,「開きやすいノート」を挟んで使用中なので,買いたいものは特にないんだけど。

● 次にノートやメモパッドの棚を見る。測量野帳にビニールを被せたLoFt仕様が280円,A6Campus(30枚)にLoFt独特のデザインと防水を施したものが180円。
 買う人がいるから,これらが売られているんだろうけど,ぼくはまったく食指が動かない。素の測量野帳は200円で買えるのだ。まとめ買いをして1冊あたりの単価を150円にする人が多いだろう。Campusは48枚がコンビニでも120円で買える。ぼくは迷わずそちらを買う。

● が,こういうものが売れるのはそこそこ豊かだからだろう。さらにもっと豊かさが増すとかえって売れなくなるのじゃないかと思うのだけど,現状ではこれに差額を投じてもよいと思う人がいる。ノートのコレクターもたぶんいる。いい時代なのだ。
 とはいえ,どんな加工でもいいというわけではないだろう。販売側も知恵を絞っているはずだ。ぼくがアーダコーダということではない。

● 筆記具は見なかった。つまり,今のところ,筆記具には興味が行っていないということ。手帳とノートにしか興味がないのだろう。なぜかといえば,筆記具はこれ以上増やしても使わないまま終わることがかなりの確度で明らかだからだ。
 対して,ノートはいずれ必ず使う。かなりの在庫があるけれども,消費のスピードが筆記具とは全然違う。

● もうひとつ,無印良品。LoFtも無印も堤清二さんの西武の系列だったもの。堤さんは傑出したイノベーターだったんだろうかなぁ。
 先日,700円の「滑らかな書き味ハードカバーノート」を買ったばかりだけど,現在使用中の「開きやすいノート」に魅せられている。無印ノートはもっと買ってもいいかなと思っている。

● で,ずいぶん丹念に現品を確認。「1日1ページノート」を購入。手帳棚にあった。
 予め日付が印刷された手帳ではない。ページも右上に日付を書く欄があって,あとは罫線(A罫)が引かれているだけの普通のノートだ。
 日付欄があるノートは普通にあるから,「1日1ページノート」の普通のノートの範疇に属すると思えるんだけども,手帳の棚にあるということは,手帳の販売期間にしか販売しないということだろうか。
 かなり分厚い。たぶん365ページはあるんだろう。それだけ厚くても180度フラットに開く。糸綴じ(4点)の威力だろう。

● 1日1ページは無視して使う。文庫本サイズでもあるし,ほぼ日手帳カバーに収まるだろうと思ったんだけど,厚すぎてちょっと無理っぽい。
 厚いノートを作るには技術が要るのだろう。CampusにもB5サイズなら100枚のがあるのだが,A6にはない。小型で厚いのを作るのは難しいのか。

● とはいえ,厚いノートは百均でも売られている。「B6フリーノート・368ページ」は有名だし,ダイソーの「文庫本と同じサイズのノート」も無印のパクリ感満載だけれども,144枚ながらわりと開き具合がいい。無地なのが文章しか書かない自分的には難だけど,絵心のある人なら飛びつきたくなるんじゃないか。
 つまり,厚いノートを作るのはさほどに難しくないのかねぇ。A6で厚いのがないのは,技術以外の理由によるんだろうか。

● 他に,無印で最も安いであろうA6サイズのこちらも購入してみた。30枚ながらこれも糸綴じ。Campusの無線綴じより安心感があるが,メーカーはたぶんコクヨ。
 そう思う根拠は,紙が測量野帳の“セ-Y21N”とほぼ同じだからだ(まったく同じではない。こちらの方が古紙の含有率が高い)。ま,根拠としては絶対的なものではないけどね。

2018年11月15日木曜日

2018.11.15 ファミリーマートで無印「滑らかな書き味ハードカバーノート」を購入

● 宇都宮駅東口を出てファミマへ。無印良品の文具が見たくなって。ところが,無印の棚は補充がされてなくて,スカスカ。アテがはずれた。
 この店,もとはサンクスだった(と思う)のだが,そんなことも関係あるんだろうか。それとも,無印製品を置くのはやめる方向なんだろうか。文具に関しては,無印以外の普通のメーカー品も売られている。

● でも,棚がスカスカというのはいただけない。スカスカになってからけっこう経っているっぽいのは,なおいけない。
 常時,商品で埋めておかないと。それがコンビニの真骨頂ではないか。スカスカの棚があると,客を引かせてしまうんじゃないのかなぁ。

● 文具でわずかに残っていたのが,「滑らかな書き味ハードカバーノート」2冊。何も買わないで出るのもアレだったので,2冊のうちの1冊を買った。
 無印の店舗で何度も見かけているが,自分には明らかに過ぎた製品であると思っていたし,今も思っている。目下,「開きやすいノート」を使用中なので,無印ノートの品質に疑念は持っていない。使わなくても自分には過ぎているとわかる。
 A6の「開きやすいノート」は96枚で300円なのに対して,こちらはA6より小さいのに,同じ96枚で700円なのだ。いよいよ自分には過ぎている。

● 4点糸綴じ。スピンが1本付いている。幅はモレスキンと同じ。モレスキンより縦長。ゴムバンドは付いていないが,品質では明らかにモレスキンなど問題にしないだろう。
 なのに,3倍のお金を払って,品質粗悪なモレスキンを買う人がいる不思議。ほんとにわからない。それがブランド力というものだと言われれば,そうなのかと答えるしかない。

● のだが,世の中はバカで満ちており,日本も例外ではないのだと考えた方が,直截でわかりやすい。話が早い。
 メーカーの稚拙な宣伝に乗せられ,嬉々として(かどうかは知らないが)お金をさしだす。メーカー以外にもモレスキンを飯のタネにしている人がいて,書籍やネットで情報を発信し,イベントを開催する。まんまとそれに乗っかり,彼らの収入増加に貢献する。そこまでのバカからはいくらふんだくってもかまわないだろう。

● ネットを見ていると,モレスキンを称して,さすがに高級ノートで紙質も製本もしっかりしている,でも値段が・・・・・・,と書いている人がけっこういるのだ。重ねていうが,こういう米と麦の区別もつかない味音痴には,何を食べさせてもかまわないだろう。
 この種の手合は,ノートを使っているのではない。たぶん供給側が作った気分を消費しているのだ。気分の消費にはお金がかかるものだ。

2018年11月14日水曜日

2018.11.14 Postalco Snap Pad に思いを馳せてみた

● ほぼ日の記事(乗組員が手帳を見せ合うというもの)を見ていたら,ポスタルコのA4バインダーが紹介されていた。Postalco Snap Pad というのが商品名らしい。A4とA5がある。
 コピーの裏紙をキチンとセットして,外にも持ち出せるメモ帳に変身させる用具。前に読んだ文具本にもこの製品が紹介されていたので,こういうものがあるのかと知ってはいた。

● 今日,ほぼ日の記事で再度見て,これがメモノートの最終兵器かと思った。使い終えたあとの紙は,コクヨのフラットファイルにでも綴じて保存しておけばいい。要らないのは捨てる。
 ダイソーのクリップボードでも同じ用は足りる。家で使うならこれでいいかもしれない。が,外に持ち出すとなると,クリップボードでは紙が縒れてしまうかもしれない。

● Campus Junior Pencilでサラサラと書いていくのは悪くない気がする。0.9mmの2Bでね。
 最後は鉛筆に戻りたいと思っている。鉛筆を使うとすれば,紙は片面使用に限る。ポスタルコはピッタリだ。

● しかし,その前に,今あるノートと万年筆のカートリッジインクを全部使わなければ。どれだけ長生きすればポスタルコを使えるようになるかな。
 その頃は仕事も完全引退しているから,コピー用紙の裏紙は手に入らないようになっている。裏紙じゃなくて,ヨドバシあたりでコピー用紙を束で買ってきて使えばいいし,もっといい紙を買ってきてセットすればいいわけなんだが。

● というようなことを思ってみた。文具を使うためだけにでも長生きしてみる価値はあるか。

2018年11月11日日曜日

2018.11.11 手紙を書くのにボールペンを使うのは,今でも失礼なこと?

● 昔は手紙をボールペンで書くのは失礼なこととされていた。さすがに筆を使う人はいなかったし,筆ペンなんてのもなかったから(あったのか),手紙は万年筆か付けペンで書くものだった。
 今はどうなんだろう。手紙を書くことじたい,大きく減っていると思うんだけど。

● でも,最近(っていうか,けっこう前から),文具店のレター用品がけっこう充実し始めているようなので,ちょっと気になった。
 太めの線のボールペンなら許されるんだろうか。昔はボールペンというと油性しかなかった。今は水性もゲルインクもある。万年筆のほかに,水性ボールペンならいいような気もする。
 レターペンのような手紙を書くのに使ってね的な筆記具もあるが,呉竹のレターペンの中には水性ボールがあったと思う。

● そもそも,なぜ私信をボールペンで書くのはよろしくないとされたんだろうか。そこからして不思議といえば不思議。
 ボールペンはビジネスで使うものといった暗黙の決まり事のようなものは,今ではなくなっているように思える。そもそもビジネスでもボールペンを使う機会はガクンと減っているものね。

● ぼくならどうするかな。いや,パソコンで書いて,署名だけ万年筆を使うと思うんだけどね。全部を手書きするとなると,中字の万年筆を使うかな。色はもちろんブルーブラック。
 黒はない。すべての黒を試してみたわけではもちろんないんだけど,ぼくが使ったことのある黒は黒すぎて,便箋の印象が重くなりすぎるように思う。黒は重さを感じさせる。ちょっとイヤかな。

2018年11月10日土曜日

2018.11.10 あまり在庫を抱えると閉塞感も一緒に抱えることになる

● 宇都宮ララスクのダイソーで新型(?)ダイスキンを2冊購入。この大理石調の表紙のだけは持っていないので。
 ただし,ぼく的には従来型ダイスキンを推奨。新型は中紙60枚と少ないうえにA罫なのでね。この大きさならB罫がふさわしい。何の根拠もないけど,そう思う。

● 大量買いするということは,その後に買う機会がなくなるということだ。ノートを1冊使い切って,次は何を使うかと文具店で探す楽しみがなくなる。
 だからチアックは買えなくてよかったんだろうな。

● ぼくがずっとダイスキンを使っているのは,ダイスキンの在庫を相当量抱えてしまっていることによる。かつてはダイスキンの供給が安定していなかったので,見つけたら買っておく方式だった。
 そんなことをしているうちに安定的に供給されるようになったんだけども,ともかくダイスキンの在庫がまだタップリ以上にある。

● 買ったものは使わなければならない。ノートはコレクションしておくものではなく,使ってナンボの実用品だから。使うべきものがすでにあるのに,新たに買うってのはねぇ。
 何とはなしの閉塞感が漂うことになる。在庫を抱える最大の難点は,この閉塞感を一緒に抱え込むことではないか。
 というわけなので,閉塞感が少ぉし上積みされた。この新型ダイスキンは,たぶん1ヶ月で使いきれると思うので,ほんとうに少ぉしではあるんだけれど。

● ついでに他のノートも買いそうになった。ひとつはカバー付きのA6ノート。ひょっとしたら,現在使用中の「開きやすいノート」にもこのカバーを流用できるのではないかと思って。
 が,よく考えてみたら(考えなくても)流用する必要などないのだ。今使っているほぼ日手帳カバーでいいわけだから。
 Campusなら間違いなく流用できるんだけど,Amazonで買った皮カバーがある。それを使えばいいだけだ。っていうか,この皮カバーも買っただけでほとんど使っていないのだ。

● もうひとつ,ダイソー版文庫本ノート。ありていに言えば無印良品版のパクリ。中紙は無地で144枚。無印版よりも開き具合がいい。
 無地なのが文章しか書かない自分にはやや難。紙はダイスキンより薄めなのだけども,それがなかなかどうして優秀で,万年筆でも裏抜けはないらしい。

● が,思いとどまった。在庫を積み上げてはいけないのだ。とにかく今は在庫分を消費しなければ。
 ついフラフラと新型ダイスキンを買ってしまったけれど,それだけにとどめておかなくては。

2018年11月9日金曜日

2018.11.09 SARASAをいくつか取り揃えてみた

● 横罫のノートに文字を書くだけなので,筆記具に関しては非常に安定している。昔,Preppy。今,PLAISIR。
 若い頃は,調子こいてモンブランとかの高い万年筆を使ったこともあった。老境にさしかかった今は,そういうものに対する憧れや幻想は持っていない。

● PLAISIRで充分だと思う。Preppyはキャップが割れやすい。その割れやすいキャップの根本に予めテープを巻いて使っていた。そうしてPreppyを使うのでもいい。
 自分にはそれで充分というのが自己診断。

● インクはブルーブラックに限る。同じブルーブラックでもメーカーによって色に違いはあるが,そうした細かい違いは気にしない。ざっくりブルーブラックに分類される色ならOKだ。
 ボールペンはもとより,万年筆でも黒が主流になっているやに思われる。コピー機の普及が原因だろうか。コピーを取るなら明らかに黒がいい。黒化(?)は会社や役所で始まって,家庭にまで広まった現象ではないかと思っている。
 鉛筆の黒はいいんだけれども,万年筆やボールペンの黒は書いたあとの印象が重くなりすぎて,ちょっと敬遠したい。墨汁の黒と同じで,汚いなと思ってしまう。今はそうでない黒インクがあるのかもしれないけれど。
 職場では低粘度油性の黒をメインに使っているけれども,プライベートでそれを使うのはイヤだ。

● ちなみに,ボールペンの青もぼくは採用しない。昔の油性ボールペンの青なら知らず,現在のゲルインクや低粘度油性の青には揮発性があるのではないか。目に刺さってくる。
 強調のために少し使うならありだと思うんだけども,基本の色にはできない。ボールペンもブルーブラックがいい。

● ので,ボールペンは,ブルーブラックが用意されているゲルインクボールペンから選ぶことになる。
 ぼくが持っているのは三菱のSignoとゼブラのSARASA。理由は手に入れやすいから。

● 10月25日。宇都宮ララスクエアの落合書店文具売場でSARASAの0.5mmを購入。普通にメモを取るのに,0.7mmだと線の主張がやや強すぎる。
 で,少し使ってみたんだけど,0.5でも普段使いには少し太すぎるかなと思えた。

● なので,今日,紀伊国屋書店の文具売場でSARASAの0.4mmと0.3mmを購入した。結果はというと,???という感じ。
 0.5と0.4の間にはかなりの隔たりがある(0.4と0.3の差はあまりない)。0.4では少し細すぎる。0.45はないものか。
 便箋で手紙を書くなら0.7でいいだろうし,手帳に使うなら0.3で決まりなんだけど,ノートやメモ帳に書くとなると0.5を使うことになるか。

● それと書き味。0.4では硬くなりすぎる。書き味が硬いということは,少し書くだけで疲れるということ。
 SARASAのヌルヌルヌラヌラの快感を味わうには0.7くらいがちょうどいいんだよね。細くなればヌルヌルヌラヌラが損なわれるのは理の当然。太さ(細さ)と書き味のアンビバレンツ。
 やはりメインはPLAISIRであり続けそうだ。

2018年11月7日水曜日

2018.11.07 「開きやすいノート」がかなりいい 2

● 「開きやすいノート」は本当に書くことを誘ってくる。何か書きたくなる。
 ほぼ日手帳カバーに替えて,さらにその効果が高まった。カバー・オン・カバーを装着したら,いっそうそうなった気がする。つまり,触りたくなって手に取ることが多くなった。ノート本体のみならず,周辺環境(?)も大切だということになる。

● 書くことを誘ってくるから,とりあえずノートを開いてみる。書くことは何もないなと思いながら,ともかく「開きやすいノート」に向かってみる。
 何か浮かんでくる。それを書き取っていく。するとそれがスルスルと膨れていくことがある。そのままパソコンで打ち直すとブログになることもある。

● ノートに書く量が増えると,ブログのネタも増える(ほとんど読まれていないブログだけど)。ネタを見つけたからノートに書く量が増えているのではない。書く量を増やすとネタも増えるのだ。
 同じ現象はキーボード入力でも起こるので,これは手書きだけの効用ではないんだけれども。

● さて,次はどのノートを使おうか。続いて同じ「開きやすいノート」を使うか。ダイスキンに戻るか。測量野帳を使ってみるか。
 それともSYSTEMICにCampusを2冊挟んで持ち歩こうか。Campusは48枚だけど,2冊持ち歩けば,96枚のノートを使っているのと同じことだ。
 実物を手に取りながら,思い悩んでみた。こういう悩みならずっと味わっていたいものだな。

● 「開きやすいノート」がかなり良かったので,ダイスキンから少し気持ちが離れた感じはある。といって大量の在庫を放置はできないから,必ず使うことになるけどね。
 あと“飽き”を考慮にいれないとね。同じものを使っていると飽きがくる。ここのところ,ずっとダイスキンとPLAISIRの組合せでやってきて,その状態で安定していた。飽きは克服できたかと思っていたのだが,無理に抑えつけていたのかも。本当はほかに使ってみたいものがあるのに,その気持ちに自分で蓋をしていたのかも。

2018年11月6日火曜日

2018.11.06 ノートを使うのが趣味?

● ひょっとすると,ぼくがノートに何ごとかを書いているのは,ノートを消費したいからなのかもしれない。書いたものをどう活用しようかとか,生活や仕事にノートをどう活かそうかとか,そういうことではなくて,ノートを消費するという生活をしたいから,ノートを使っている。
 ノートを使うことは,何かの手段ではなくて,まさにそれが目的という。

● その場合,バリバリとノートを消費している状態が,すなわち生活が充実していることになる。消費量が充実度のバロメーター。
 だから何でもいいから書いて,ノートの残量を減らしたいという方向に行く。案外,そんなものではないだろうか。
 で,これはノートや文具に限らず,趣味の特性なのではないか。つまり,ぼくの趣味はノートを使うこと。ま,悪い趣味ではないと思うけど。

● ノートなんてどれでも同じという人が大半だろうし(そもそも,ノートを使っているのは少数派だろう),実際そのとおりだとも思うけれども,ノートを使うことが趣味ということになると,そこにこだわらずにどこにこだわるのかという話になる。
 といって,ライフやミドリ,ツバメの製品をぼくはまだ使ったことがないのだ。高いからな(ツバメはそうでもないが)。
 トラベラーズノートも“紳士なノート”もLEUCHTTURMもロディアのハードカバーノートも使うことなく終わるだろう。それらを使ってみたいとはあまり思わないのだけれども,それでノートを使うことが趣味だと広言してはいけないな。

2018.11.06 使い倒された道具が帯びる,なにか魅力的なもの

● ブング・ジャム『筆箱採集帳 増補・新装版』(廣済堂出版)の中に,高畑正幸文具王の次のような言葉がある。
 大切に使われるべくして生まれたものが使い込まれて風格を持つケースは,紳士の道具にはよく見られることだが,ごく普通の日用品が酷使され続けた結果,持つに至った説得力にもまた,前者とは異なる魅力がある。無関心な信頼の集積が,層を成す漆のように深みを持ち,いつしか魂を持ち始める。(p79)
 高級品ではない普通の道具を使い倒して,その使い倒された道具が帯びる,なにか魅力的なもの。

● そういうものが自分の筆箱の中にはないものか。万年筆(プラチナのプレジール)にそろそろその気配を感じるくらいかなぁ。
 手帳に合わせているハイテックCコレトは長く使っていて,製品名の印字も完全に消えているんだけども,塗装が剥げるとかの痛みがあまりないので,風格を感じるところには至っていない。
 ディズニーランドで買ったスティッチの定規もメモリは読めないくらいになっているんだけども,プラスチックだからか,風格云々という趣はない。

● システム手帳のカバーも長く使って年季が入った感はあるけれども,たんに汚れているだけかも。
 今どきの文具で風格を出せるものは,あまりないかもしれないね。

● それでも長く使っていれば,使い手の気持ちが道具に籠もるものだと思いたい。実際にそういうことはないんだろうけれども,あると思った方が愛着も湧くというものだ。
 だから,安物でいいから大事に長く使いたいと思うのだ。文具に現れた自分の風格(?)を見たいものだ。主には高級文具が持つ,文具それ自体の風格ではなくて。

2018年11月5日月曜日

2018.11.05 “考えをまとめる”というのがどういうことなのかわからない

● 考えをまとめるとき,いきなりパソコンに向かうな,とよく言われる。パソコンに向かうのは基礎作業が終わったあとで,その基礎作業は紙とペンで行うのがいい,と。そのとおりなのだと思う。
 が,ぼくにはよくわからないことがある。考えをまとめるってどういうことなのだろう。

● 企画を立てるということをやったことがないのだ。KJ法だのマインドマップだのっていうのは知っている。解説本を読んだことがあるからね。
 けれども実際にやってみたことは一度もないので(なぜないのかといえば,必要に迫られたことがないからだが),どうもピンと来ないのだ。

● ぼくは最初から文章しかかかない。書いている最中に,当初の見込みとは違うところに行ったり,考えが膨らんだり跳んだりすることはある。
 だから,書いた方がいいとは思うのだけど,文章しか書かないのだから,最初からパソコンで何の問題もない。テキストエディタを立ちあげて,パタパタ書いているときにも,手書きと同じ現象は起こる。

● いきなりパソコンに向かうなと言われると,ぼくの知らない創造の世界(創造というほど大げさでなくても,何らかの思考の世界)があるんだろうと思わされる。メモも文章で録る自分にはわからない世界というのがあるのかな,と。

● で,自分には縁がなくて憧れるのが情報カードの世界だ。梅棹忠夫『知的生産の技術』を読むと,カードにあらずんば人にあらず,的な印象を受けるからね。
 だから,カードもカードケースもジョッターも買うには買ったんですよねぇ。案の定,まったく使わない。

● 構えないで必要なときに必要に応じて使えばいいんでしょ。どう使うかを使う前から体系化しようとするから敷居が高くなってしまうんだろうね。
 そうだとしても,情報カードを使って「考えをまとめる」のがピッタリの局面ってどういうものなんだろうかな。そこで竦んじゃう。

2018.11.05 まさに小市民的な書き方をしている

● ぼくはずっと横罫のノートを愛用。ときどき,方眼も使ってみるけど,使い方は横罫を使っているときと同じ。若い頃は無地を好んでいたが,やはり横に文章を書くだけだった。
 つまりは,罫線に添って律儀に書くタイプなのだ。

● 梅棹忠夫『知的生産の技術』に紹介されているエピソードを,今,思いだした。昭和天皇は罫線なんか無視して,大きな字で署名されたそうだ。
 梅棹さんは,帝王の文字とはこういうものかと感じ入った,と書いていたのではなかったか。

● ぼくはそれができないのだ。小市民的な使い方というんだろうかなぁ。予め決められたルールやデフォルトの縛りをあまり疑わずに,それに従うタイプなのだ。
 小心者でジャンプできない。独創や発見には向かないタイプだ。そういうことがノートの使い方からも窺われる。

● ノートくらいで何を大げさなと言われるか。そうではない。大事は小事に現れるのだ。わかっていても直せない。それが器量だからだろう。
 要するに,自分の書き方が現状のままでいいと思っているわけではない。ないのだけれども,それに代わる書き方も思いつかない。

2018年11月1日木曜日

2018.11.01 測量野帳のサイトも面白い

● トラベラーズノートのサイトは見ているだけで楽しいのだが,測量野帳のサイトも面白い。なぜ面白いかというと,ディープな世界が展開されているからだ。
 なぜディープな世界を展開できるかといえば,ディープな使い方をしているユーザーがたくさんいるからだ。メーカーが想定していなかった使い方をする人たちが。

● 測量野帳の存在は前から知っていた。枻出版社から出た『測量野帳スタイルブック』も買った。現物も持っている(使ってはいない)。
 野帳ユーザーをヤチョラーと呼ぶことがあるのは知っていたけど,ヤチョリスト,ヤチョリアンっていうのもあったのか。濃い話だ。

● ディープな使い方をしている人っていうのは,その人自身に魅力を感じることが多い。測量野帳のサイトに登場している人たちもそうだ。
 これって何でかねぇ。意外性と偏りかな。工夫を重ねて,エッと思わせる用途に使っている。でもその用途に使うんだったら,測量野帳じゃなくてもっといいのがあるんじゃないのと言いたくなる。けれども,そんなものには目もくれずに測量野帳にのめりこんでいる。

● ユーザーをそうさせるだけの魅力を秘めた製品なのだろう。そういう製品は自分も使ってみたい。次は8冊ほど買いためてある測量野帳を使ってみるかな。
 ただ,このサイトで語られているような使い方をできる自信はまったくない。なぜなら,ぼくはひたすら文章を書くだけだからだ。測量野帳でなければならない理由は皆無なのだよね。

2018.11.01 東武百貨店5階の文具売場へCIAKを買い占めに行く

● 東武百貨店5階の文具売場で5日前に買ったCIAKのノート,価格は300円だった。楽天では1,500円で販売されている。何の故か知らないけれど,破格に安い。
 ので,いささか品格を欠くかもしれないけれども,あるだけ全部買い占めようと思って,軍資金を持って出かけていった。
 ぼくが買ったのはSサイズだけど,Mサイズもあった。ぜんぶあわせれば,20冊はあったと思う。1冊残らず買ってしまおう。

● が,ワゴンごと影も形もなくなってた。たぶん先月いっぱい(つまり,昨日まで)のセールだったのだろう。万年筆の5割引きも終了してた。
 というわけで,買えなかった。

● が,買わずにすんでよかったかも。残念感もあまりない。ノートは基本,使ってナンボ。どのノートを使うかはどうでもいいっちゃどうでもいい。百均ノートで何も不都合はないわけで。
 もうひとつ,大量の在庫がすでにある。少なく見積もって7年分のノートがある。まず,それらを使っていかなくちゃ。

● 文具店の経営も難しいなぁと思った。ロフトを見たあと,ここに来てもあまりワクワクしないのだ。
 無印だと,中身はコクヨなどのOEMだとしても,ともかく無印にしかない商品があるから,吸引力はある。が,メーカー品を並べるだけだと,品揃えの豊富さで勝負が決まってしまうようだ。
 高級品しか置かないという行き方もあるのだろう。そのことによって重厚な雰囲気を作り,購入単価の高いお客を相手に商売する。が,それって地方ではかなり難しいだろうしね。

2018.11.01 ほぼ日手帳のカバー・オン・カバーを購入。無印良品のノートを見る

● 無印良品の「開きやすいノート」にほぼ日手帳のカバーを付けて使うことにした。岡本太郎「建設」のカバー。4年前にほぼ日が出したもの。
 そうして使いだすと,カバーが汚れるのが気になりだした。カバーにカバー・オン・カバーをかければ問題が解決する。

● 幸いなことに,宇都宮にもロフトができている。福田屋2階にある。その宇都宮ロフトに行った。で,カバー・オン・カバーを購入した。200円。
 さっそく,装着した。あたりまえだけれどもピッタリだ。「建設」カバーの素材はポリエステル。柔らかい触感だ。カバー・オン・カバーを付けると,その触感を殺してしまう。だけども,汚さずにすむ安心感の方がはるかに勝る。
 これで安心だ。ワイルドに使える。カバーを使うのではなく,中の「開きやすいノート」を使うわけだけれども。

● カバー・オン・カバーだけをレジに持っていくのも何だったので,ほかに買えるものはないかと売場をウロウロした。手帳はすでに買ってしまっているし,特にこれが欲しいというものもない。
 結局,いつか必ず使うからいくらあっても困らない(はずの)A6のCampusノートを2冊を一緒に買うことにした。それでも440円にしかならないんだけど。

● すでに購入したほぼ日5年手帳もあった。ただし,本体だけ。カバーはない。5年手帳はカバーなしでも問題なく使える仕様。
 おそらく,持ち歩く人は少ないだろう。家に置いておくのなら,むしろカバーは付けない方がクールかもしれない。実際,そうして使う人が多いのだろう。

● ほぼ日以外にも各社の手帳がズラーッとあって壮観だ。それらを前にして,どれにしようかと迷うのは,手帳好きには楽しい時間だろう。
 現物を前にして,というのがいいんだね。ネット通販ではそこまでの高揚は現出できないような気がする。

● 同じフロアにある無印良品でノートを丹念(?)に確認。現在使用中の「開きやすいノート 96枚」はすでに販売終了になっている。在庫はあと4冊。
 別に無印のノートにこだわるつもりはない。ただ,ほぼ日カバーを付けるのであれば,ある程度の厚さがないとサマにならない。A6で96枚のノートはなかなかないようなのだ。

● 無印でいえば,「開きやすいノート」の後継は,「フラットに開くノート 80枚」しかないんだけど,うーむ,これではちょっと薄すぎる。
 あと,価格。80枚で450円。「開きやすいノート」は96枚で300円なのにな,とセコイことも考えてしまうわけだ。

2018.11.01 「超」整理手帳に往年の勢いなし

● 宇都宮市内の某書店の手帳売場。「超」整理手帳のリフィルがいくつかひっそりと置かれていた。今年,書店や文具店の手帳売場で「超」整理手帳を見かけたのは,今日が初めてだ。
 リフィルしかないということは,新規ユーザーがいないのだろう。そのリフィルもちょこっとしかないということは,既存ユーザーでも「超」整理手帳を使い続ける人はそんなにいないということだろう。

● 「超」整理手帳の特徴は8週間分のスケジュールを一覧できるところにある。たくさんの予定を抱えている場合,これはたしかに大きなメリットになると思う(そんな予定を抱えたことはないから,想像で言っている)。
 それが売れなくなった。理由は次の3つが考えられる。

● 第1に,「超」整理手帳のメリットが活きるほどの予定を抱えている人なんか,じつはあまりいなかったということ。
 第2に,スケジュール管理を主たる用途として手帳を使っている人も,そんなにいないのじゃないかということ。
 第3に,これは第2と同じことになるのだが,手帳は実用品というよりも遊びの道具と化しつつあり,「超」整理手帳はその流れに乗れなかったということ。

● 世に手帳マニア,ノートマニア,文具マニアは多いようで(ぼくもそうなのだけど),Instagramには多くの人が自分の手帳を載せている。そんなことができるのは,極端にいえば,暇だからだ。暇がないとマニアにはなれないものだ。Instagramにあがっている手帳やノートは暇の結晶だ。
 暇なのは悪いことではない。むしろ,誰にとっても,人生の究極の目標は暇人になることではないかと思う。

● 自営であれ勤め人であれ,本当に仕事が忙しい時期は,手帳は空欄のままになる。手帳に何かを書く時間もない。多くの人が体験済みのことだろう。
 自分の考えをノートにまとめるなんてのもそうだ。それをするには,それができるだけの暇が必要だ。忙しいときにそんなことはやっていられない。

● 「超」整理手帳はしばしばそういう状態になる人が使うものだろう。そういうコンセプトだ。
 私事でそういう状態になる人はいない。仕事でなる。だから,「超」整理手帳はビジネスに使うものといういイメージが濃い。機能一点ばり。遊び(無駄)がない。
 いや,「超」整理手帳でも遊ぼうと思えば遊べるはずだ。しかし,スーツを着て遊ぶようなもので,何とはなしに遊びづらいように思われているのではないか。

● 最近では“ビジネスも遊ぶようにやれ”が流行りだ。IT企業をはじめ,服装は自由というところが増えているのではなかろうか。で,そういう企業が時代の先端を走っているように思われている。
 手帳にも機能や効率だけではなく,使う楽しみがあった方がいい。ここでも「ほぼ日手帳」が画期になったと思うのだが,自由に使える手帳,お仕着せではなく自分なりの使い方ができる(と謳っている)手帳が,需要を掴んでいる。

● 「超」整理手帳でもそれはできるのだが(むしろ,やりやすいのではないか),やはり発祥時のイメージに“生産性”が強すぎたか。できる人(できる人と思われたい人)が持つ手帳という感じといったらいいか。
 問題なのは,東大信仰が薄れてきたのと同じで,従来型の「できる人」がかつてのような魅力を持たなくなっていることだ。

● もっというと,8週間分のスケジュールを一覧できないと息ができないような境遇には置かれたくない,と思う人が発言力を持ちだしたのかもしれない。
 そんな人はいわゆる勝ち組で,自分とは関係ないし,関係を持ちたくもないと考える人も多いかもしれない。

● 遊びがないという点では,老舗の能率手帳も同じだ。その能率手帳がビジネスマンを中心に長く使われ続けてきたのは,じつは手帳の第1目的はメモであって,管理といえるほどのスケジュール管理をしている人は昔からいなかったのではないか,と思えてくるのだ。そもそも,能率手帳で細かくスケジュールを管理するのは無理ではないか。
 メモなら大きなカードともいえる「超」整理手帳より,冊子型の能率手帳が使い勝手がいいと考える人は多いだろう。さらに言い募ると,能率手帳の肝は左ページのスケジュール欄ではなく,右ページのメモ欄(無地)にあるのではないか。ここで遊べるのだ。

● もうひとつ。「超」整理手帳は学者とか芸能人とか,ひとりで仕事をする人に向いたツールという印象がある。すべてを自分で差配できる人にはこれでいいかもしれない。
 が,チームや集団でひとつの仕事を進めていかなければならない人は,自分のスケジュールを自分で決めることができない。決めてもしょっちゅう変更を余儀なくされる。8週間分を一覧できるなんて,どこかの桃源郷にある話であって,まったく現実的ではない。