2024年8月15日木曜日

2024.08.15 忘れるために書く

● 宇都宮テラスのワーク(休憩)コーナーで,ここ数日の間にやらかしたチョンボを書き留めてます。忘れないためではなく,サッサと忘れるために。
 大人は忘れるために書くのだ。わかったかね,そこのお坊っちゃん。別にわからんでもいいんだけどさ。

● 児童,生徒,学生と呼ばれていた頃は,憶えるために書いていた。漢字を何度もノートに書く。英単語も書いて憶える。
 もう少し進むと,理解しやすいように構造化(?)して書くことが増える。複雑なものを平面(ノート)に展開して,腑に落ちるようにする。

● けれども,大人になって,しかも40代,50代になると,もはや憶えるべきものは存在しなくなる。存在はするんだけれども,憶えようとしなくなる。
 それよりも,憶えたくもないのに頭に入ってきてしまうことどもが増える。そのほとんど(すべてと言ってしまいたいのだが)はおよそどうでもいいことだ。

● どうでもいいことだから放っておいても忘れるかと言えば,8割は忘れられるかな。つまり,たいていのことは放っておけばいい。自然に忘れる。
 が,問題は残りの2割。これがけっこうしつこい。繰り返し繰り返し,吃水線の上に顔を出す。

● それを忘れるためには書き出してしまうこと。脳の外に吐き出してしまうこと。
 それでどのくらい効果があるのかはわからないが(書かないでいても,時間薬が効いて忘れられたかもしれない。書いた場合と書かなかった場合を両方同時に体験することはできないので,厳密な比較は不可能だ),たぶん書いた方が安心して忘れることができる。

● しかし,問題がひとつある。しつこく頭に浮かんでくるようなことは,自分としてはシリアスなことが多い。忘れた方がいいんだけれども,しかし,シリアスだ,と。
 そういうことを文字に置き換えるという作業は,心理的にエネルギーを要する。自分を客観視するもう一人の自分を作らなくてはいけない。客観視される自分の生気を抜かなくちゃいけない。

● それをするにはエネルギーが要る。どうでもいいことはいくらでもダラダラと書けるけどね,切実に書いて吐き出すべきことはなかなか書けない。
 それができる,たとえばプロの小説家は並みじゃないんだなぁと思いますよ。

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