2025年10月28日火曜日

2025.10.28 手書きの楽しみを味わうための最低限

● 相方に従いて銀座に来た。三越の地階で黒糖パンを買いたいのだという。
 彼女の買物につきあうのはこれが初めてではないが(というか,毎日,スーパーにつきあわされている),彼女にとっての銀座とぼくにとっての銀座は全く別物であることをあらためて実感した。

● ここまで来れば伊東屋がすぐそこなのだが,相方は伊東屋でぼくを解放してくれる気はなさそうだった。ので,1階にあるカランダッシュの筆記具を収めているガラスケースを眺めただけで帰ってきた。
 カランダッシュはけっこうなお値段だ。そういうものをぼくが買うことはない。

● メルカリで使いかけの鉛筆を買って,ノートはコクヨの Campus を使っている人間だ。良く言えば質実剛健。遊びを排している。厳密に言えば,鉛筆にも Campus にも遊びはあるのだが。
 小学生が使うものを自分も使うという方針だと言うと,カッコつけすぎになる。要するに,高いのは買わないということだ。カランダッシュのやうな装飾性のおる大人の筆記具はぼくには無縁なものと心得ている。

● これは貧しさに通じるだろうか。ぼくの筆記生活(?)はけっこう以上に貧しい,と。
 言えるかもな。ムダがないのであるけれども,要はケチだからだ。ぼくが使っているノートや鉛筆には,そのケチさ加減が現れているかもしれない。
 いつだったか,自動車のディーラーに行ったときに,整備担当の社員がトンボ2558で紙に書きながら説明してくれたのだが,そのときの2558はカッコよく見えた。ぼくがノートと鉛筆を使っているところを見て,鉛筆がカッコよく見える人は,たぶんいないんじゃないかな。

● 優雅な佇まいは皆無のはずだ。文具はアクセサリー的な性格も持つ。特に,アクセサリーを身に付けない男性諸氏にとっては,筆記具で自分を装飾するのは楽しいことであるかもしれない。
 筆記具に凝るのは男で,紙ものに凝るのは女というイメージがあるのだが,筆記具は男性にとってアクセサリーでもるからだろう。

● ところで。この違いも性差に数えていいものだろうか。
 だとすると,筆記の快適性を左右するのは筆記具ではなくて紙の方だろうな。快適性の実現は女性の方が長けているとしたものだよ。

● あと,筆記具は男性にとっての武器でもあるんだろうね。性能のいい武器を手にしたいとどこかで思っているはずだよね。
 ぼくも若い頃はその指向性があったから,このあたりの機微は理解できるつもりでいる。が,現在はそうした虚栄(向上心とも言うか)からは解放されている。そのことを寂しいと思う気持ちも時々顔を覗かせる。

● が,今後,そちらに行くことはないと思う。基本,鉛筆と Campus でいい。いや,それがあらまほしい。
 手書きの楽しみはそれで充分に味わえるわけだから。そこに何かを付け加える必要はない。

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