そんなことはない。使っている場が令和8年の北関東の田んぼの村にある陋屋なのだ。場の粘着力は強烈だ。
● それを破れるものがあるとすれば想像力だけなのだろうが,場を破るほどの想像力をどうしたら獲得できるのか,ぼくにはそれこそ想像しかねる。
旅行記や歴史書,文芸作品をどれほど読んだらリアリティに充ちた想像が可能になるのか。
● いつの時代に,どこで生産されようとも,今ここにある鉛筆はあくまで1本の鉛筆という物体であるに過ぎない。その物体からそれが製造された時代や場所の何かを感じられることはない。
感じられると思ってもいけない。おそらく,それは脳が勝手に作り出したイリュージョンでしかないからだ。この鉛筆は前世紀のもの,この鉛筆はインドで生産されたもの,ということを予め知っているから,それに応じて脳が勝手に作動した結果に過ぎない。
● ヴィンテージという言葉があるが,そのヴィンテージが時代を偲ぶよすがとなるのは,形状が現在のものと違っているからだろう。経年変化も含めて,時代がかっているからだ。
しかし,そのヴィンテージでその時代の何がわかるか。見る人が見れば何がしかはわかるんだろうけど,ぼくら素人は今とは違った形状を形状として認識して終わる。それだけのことだ。
● それを鉛筆に求めるとすると,軸に印字されている文字の書体や色,塗装の具合いといったところになるだろうが,残念ながら,そこは鉛筆の中で最も劣化しやすい部分で,比較的早く消滅する。
黒鉛芯は百年経ってもビクともしないかもしれないが,芯を取り囲んでいる部分は劣化する。表面に近いところほど劣化が早い。
● もうひとつ。どこの国の鉛筆も似てきているのではないか。
吟醸や大吟醸があたりまえになると,日本酒の味や風味はメーカーを越えて一点に収斂する。同じように,鉛筆の芯も各国で良質化が進行すると,どれも似たものになる。そうした方向に向かっているのだと思える。
● というわけなので,鉛筆は時空を越えない。
鉛筆で書(描)かれたものは,幸運に恵まれれば,時空を越えて存在するが。

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