2017年11月13日月曜日

2017.11.13 日本人は書く人になった

● ぼくが若い頃にはパソコンもインターネットもなかった。職場に初めてワードプロセッサーが導入されたのは,ぼくが28歳のときだったと思う。
 メーカーの社員から説明を受けたときには,度肝を抜かれた。これは凄いと思った。自分の文字が活字になって印刷される。5インチフロッピーに持ちきれないほどの書類が保存されて,いつでも呼びだせる。一度作った書類は必要に応じて訂正するだけで再利用できる。

● 個人でワープロを持てたらなと思った。ところが,そこからワープロの価格破壊とダウンサイジングが怒濤のごとく進行して,3年後には15万円で自分用のワープロを購入することができた。
 がんがん使った。自分が作る書類はすべて3.5インチフロッピーに収めた。ワープロ愛が強すぎて,パソコンに乗り換えるのが遅れてしまったほどだ。

● 自分が書くものはすべてデジタルにしたいと思った。こんな便利なものを使わないのでは大損だと考えた。
 それから幾星霜。インターネットが普及し,ブログやSNSが登場した。そのおかげで,気がついてみれば,そのようになっている。
 これ以上にデジタル化を図ろうとするなら,手帳をGoogleカレンダーに置き換えるくらいのものだけど,さすがにそれはしないと思うので,自分のデジタル化は行くところまで行ったと感じている。

● これからどうなるかと考えると,逆にアナログに回帰することになるんだろうか。
 でも,アナログもダイスキンを使って書くようになって,デジタル化に行く前よりもたくさん手書きしているように思う。

● つまり,デジタル化が行くところまで行ったのと,かつてなくアナログで書いているのが,両立している。
 今,気がついたんだけど,これって凄くないか。

● かつてなく書いている。たぶん,ぼくだけじゃない。今の日本人は書く人になったのだ。その大半はゴミかもしれない。いや,ゴミなんだろう。ぼくもゴミを大量に垂れ流している組だろう。
 しかし,ゴミであろうと,ともかく日本人の多くは書く人になったのだ。

● “書く”に限らない。“撮る”もそうだ。日本人の多くは撮る人になった。スマホで撮ってネットにあげる。TwitterもFacebookも写真がメインといってもいいほどだ。Instagramは言うにや及ぶ。動画ならばYouTube。
 大半は駄写真ろう。プロが撮るようなわけにはいかない。決定的瞬間なんてのもめったにない。大半はなくても別にいい画像だろう。
 しかし,とにかく日本人は撮る人になったのだ。

● インターネットの影響だ(したがって,日本人に限らないのだろう)。
 ゴミや駄写真であっても,書いていれば,撮っていれば,技術も上がっていくだろう。いやはや,大変な時代になったものだ。

● その昔,カラオケの出現によって,日本人は歌う人になった。それまでは歌う場といえば,学校の音楽の授業(で歌わせられる)くらいだったのに,そちこちにマイクを持って歌える場ができた。これまた,大半は聞くのに苦痛を感じる体のものだが(お互い様だから成立している)。
 “ひとりカラオケ”というのもあるらしい。聞く人がいなくても歌える人まで出現したのだ。

● それに比べれば,読む人がいないのに書く,見る人がいないのに撮る,それが何ほどのことだろう。自分を表現するのに受け手は必須ではないのだ。
 そこを突き詰めていけば,世界は自分ひとり。この世はひとり世界なのだ。
 自分を文字や写真や動画で表現する,外部化するという行為には,それ自体にカタルシス効果があるのだろう。受け手の存在は必須ではないのだ。

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