2017年9月28日木曜日

2017.09.28 能率手帳の拡販チラシ

● 「流れる時間から“創る時間”へ」というコピー。若い頃はこういうのに惹かれた。時間の使い方によって,たとえばこの先あと40年生きるとして,その40年を短くも長くもできると思っていた。
 手帳を巧く使って時間を管理できれば,同じ40年を60年分,70年分にできる,と。だから,手帳術の書籍はずいぶん買ったし,雑誌が特集していればだいたい買って読んだものだった。

● 今はどう思っているかと問われれば(問われないだろうけど),結局,蟹は自分の甲羅に似せて穴をほるしかないものだと答えるだろう。
 ずっと手帳は使ってきたけれど,それによって時間を創れたかといえば,自分に限っては否と答えるしかない。

● さらにいうと,広い世の中にそういう人がいるのかといえば,かなり懐疑的だ。手帳によって時間を濃密に使えたという人は,いるかもしれない。
 が,時間を濃密に使える人は,手帳などなくても同じようにできる人だろう。そうじゃない人が,“手帳によって時間を濃密に使えた”と思っているとすれば,それ自体がたぶん錯覚だ。つまり,さほどに濃密な時間にはなっていなかったのではないか。

● 手帳に予定もメモも連絡先もすべて書いていて,これがなくなったら仕事ができないという人はいるはずだ。しかし,それは時間が流れるか,時間を創るかとは関係のない話であって,手帳は便利なツールであるということにすぎない。
 手帳が便利なツールであることには,ぼくもまったく異論がない。心覚えは手帳に書いておくのが良い。

● 手帳に書いておける程度の予定なら,脳内メモリに保存しておけるだろう。ほとんどの人は,それが可能なはずだ。
 その脳内メモリを解放するために,手帳に書いておくのだということだろうけれども(繰り返すけれども,心覚えは手帳に書いておくのが良いと思っている),脳内メモリをほんとに空白にしてしまっては,おそらく仕事にならないはずだ。

● これから先って本当に「デザイン」できるものなんだろうか。手帳に書くのは予定だ。予定はデザインするための要素にはなるけれども,それだけでできるデザインって何なんだ?
 一寸先は闇か光かわからないけれど,わからないということはわかっている。そのわからないものをどうやってデザインする?

● 「拝啓 あの日の自分」の方が,手帳との相性が良いように思う。手帳はこれから先をデザインするためのものというより,これまでの記録を残しておくための器として適している。
 手帳の特徴は時系列で月日と時間が並んでいることだ。その日にやったこと,起こったことを手帳に書いていけば,自動的に時系列で並ぶことになる。その効用はもっと特筆大書されるべきだと思っている。
 手帳は創造には向かない。記録に向く。親未来的ではない。親過去的である。

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