2019年3月13日水曜日

2019.03.13 万年筆の象徴性

● 万年筆の博覧会のような催事が年に一度か二度,東京で開かれるらしい。何かの雑誌で見た記憶がある。
 では,そういうものに出かけるかというと,それはない。万年筆にそこまでの思い入れは持っていない。

● 子供の頃は,万年筆は大人の象徴のひとつだった。だから,中学校に入学したときに万年筆を買ってもらったときには相当に嬉しかった。
 その後も,若い時分には,万年筆は何かを象徴している特別なものだった。ステイタスシンボルと言ってしまうと狭きに失する。知性とかライフスタイルとか人生に対する姿勢とか,そうしたものを現すものだと受けとめていた(ような気がする)。

● が,現在の自分は,万年筆に何らかの象徴性を認めることはなくなった。進歩したとか成熟したというのとは違う。自堕落になっただけかもしれない。
 ボールペンやシャープペンは最初からそうだが,万年筆も価格と性能は比例しないものになっている。モンブランとPreppyを比べて,モンブランの方が書き味その他で勝っているとはいえないことを,体験的に知ってしまっている。Preppyはさすがにというのであれば,Plaisirならモンブランとの差は実用性においてはほぼないと言い直そう。

● 万年筆に象徴性を認めなくなったのには,そういうこともあるのだと思う。大衆品の品質が切りあがったこと。
 すべてのものは実用品で,実用品に実用以上のものを見てしまうのは,あるいは見ようとするのは,知性の欠如を示すものだと思うようになった(なってしまった)。

● やはり豊かになったからだろうか。自分の子供時代に比べると,今はほんとに豊かだ。ものは溢れている。手が届かないものもたくさんあるけれども,万年筆程度だったらモンブランの149であっても,買おうと思えば買える。
 つまり,そういうことが,万年筆が持っていた何らかの象徴性が消えていった理由なのかも。だとすると,そういう象徴性,万年筆は何か特別なもの,という感覚は貧困が作っていたのか。

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