2020年10月12日月曜日

2020.10.12 測量野帳を42日間かかって使い終えた

● 9月1日から使い始めた測量野帳(LEVEL BOOK)を今日,使い切った。42日間もったことになる。前回は13日で使い切っているので,3倍以上。
 書く量が3分の1以下になったということでもある。書くときの分量は以前と変わっていない。つまり,書かない日が多くなっているということ。2,3日抜けるのはしょっちゅうで,10日以上離れてしまうこともある。


● 大したことを書いているわけではない。結局,日記(日誌)的なものになってしまっている。日記など書いてどうするのかとも思うが,それ以前に日記的なものはTwitterにあげているので,同じことをノートに書くのは時間のムダというものだ。
 それゆえ,書かなくなっていること自体は,ひょっとすると進歩かもしれないのだ。重複を省けるようになってきたという意味で。


● Twitterには出せないことも当然ある。そういうことは書いておいた方がいいだろう。
 のだが,そんなにたくさんあるわけではない。そういうことしか書かないとなると,薄い測量野帳1冊で3月はもつかもしれない。


● しかし,何を書いて何を書かないかというのは,つまるところはどうでもいい問題だ。書きたくなったら,書きたいことを,書きたいだけ,書けばいいのだ。
 そこにルールは要らない。もう仕事はしていないのだしね。気分に任せていいでしょう。


● とはいっても「気分の問題ね,ではそういうことで」というわけにも行かない。手で書くことには手で書くことでしか引きだせない効用があるからだ。
 キーボードよりも手書きでそれを実感するのだけれども,書くこと自体が次に書くべきことを引っ張りだしてくれるということだ。書くことでどんどん思考の底に降りていけるような。書くことで気づきが広がるような。


● 書くという行為を介在させないで考えることはできないとも思う(できる人もいるのかもしれないが)。本を読むだけで考えることはできるだろうか。見聞だけで考えを深めることはできるだろうか。
 その後に「書く」をしないと,読書も見聞も完結しないのではないか。書かない人は考えない人だと言ってしまっては,牽強付会に過ぎるだろうか。
 下手な鉄砲も数打ちゃ当たるで,まずは「書く」を増やすことが,考える人になる第一歩になるとすれば,「書く」が減っているのは好ましいことではない。


● で,もっと書かなきゃと思ったりもするんですよね。気分でいいじゃんとも思ってる。揺れ動いております。

● ところで,今回使った野帳は,ほぼ全ページにわたって左右の罫線のズレがなかった。見事に揃っていた。神々しいほどだ。
 こういうところが,コクヨへのリスペクトにつながる。コクヨ以外のメーカーでも同じ努力をして同じ結果を出しているのかもしれないけれど。

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