2017年3月11日土曜日

2017.03.11 しょせんは遊びの道具なんだから

● メガドン・キホーテラパーク宇都宮店の4階のSeriaを覗いた。Seriaってダイソーほどのサプライズはないんだけど,手堅くまとめてきているイメージ。
 ノート,メモ帳,筆記具,付箋などの文具は百均で問題ないなと思う。

● だいたいさ,大したことに使っているわけじゃないんだよ。高級なノートや万年筆を使っている人でも,それで何を書いているかといえば,たいてはやくたいもないことなんですよ(と思うんですよ)。
 だったら,いいのは要らないんだよね。百均製品で充分なんですよ。

● っていうか,百均文具すら要らないのかもしれない。つまり,書くことをやめてしまってもいいんですよ。その程度のことしか書いていないんだから。
 しかし,そういうものではないんでしょうね。その所以は次のとおりだ。

● 自分が死んでも世界はそのまま残る。自分が生きていたときと同じように,日は巡り,街は賑わい,川は流れ,雨が降る。宇宙の前には個人なんてなんてチッポケなんだろう。
 って,それはそうなんだけれども,その宇宙だっていずれは消滅する。つまり死ぬ。自分が死んだあとも何も変わることなく残る世界も,文字どおりに悠久なのではない。

● 歴史も芸術も知の集積も,何もかもが結局は消滅する運命にある。その過程の泡沫の生が,つまり個々の人間に与えられた生だ。
 ならば,ぼくらにできるのは遊ぶことだけだ。ノートも筆記具も遊びの道具だ。
 取るに足りないこと,つまらないこと,やってもやらなくてもどっちでもいいこと,そういうことに使っていいのだ。

● っていうか,ぼくらがやっている仕事や家庭運営など,大事なものだと思っているものだって,つまりは取るに足りない,どうでもいいことなのではないか。
 ぼくらがどう生きようとつまりはそういうことなのではないか。だってすべてはいずれ消えるんだから。

● 輪廻転生はあるのかないのか。仮にあるのだとしても,それもろともいずれ消滅するのだ。何と言っても,宇宙がなくなるのだから。
 だから,建設や蓄積に意味はない。ぼくらがすべきことは遊びだ。遊べや遊べ。

● ノートにペンで何かを書くのも遊びだ。しょせん遊びでしかない。だったら,最初から遊びと割りきったらどうか。
 遊びでしかあり得ないんだから,その遊びに高級品を使ったって罰はあたらないのだ。高級品で遊べばいいのだ。

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