で,「世の中は暇人で満ちている。皇族の鉛筆の持ち方を変わっているとあげつらっている暇があるなら,自分のその変わった顔を何とかしろ。顔は個性だと言うなら,鉛筆の持ち方も個性だ。字の巧拙も個性だ。何なんだ,この上から目線は?」と反応してしまったのだけどね。
● これって,典型的なイジメの構造だ。佳子内親王にはこれに対して反論する機会は一切与えられない(そんな暇もないだろうし,そもそもこんなクズ投稿は見てもいないだろうけど)。
イジメの発端は,あの人は変わってる,私たちとは違う,と決めつけることから始まる。そこにイジメてやろうという “故意” が介在することは極めて稀だ。
● 何を思ってもかまわないのだが,わざわざSNSで言うほどのことか。しかも,匿名アカウントで。バカと暇人につける薬はない。
たかだか鉛筆の持ち方程度のことで異端を認められないのなら,間違っても多様性だのダイバーシティだのとホザくな。
● ところが。あとでこの人のポストを遡って見たんだけどね。天皇家 vs 秋篠宮家 という視点の持ち主で,秋篠宮家に属する者には天誅を加える,という性癖の人らしいんだな。要するに,あっち側の世界の住人らしいのだ。
ダイバーシティとホザくことはあり得ない人だったようだ。知らない言葉を発することはないわけだから。
● この人のこのポストはかなり読まれている。リプも多く付いている。わが国を代表する最底辺層が集合したらしい。
実際にリプを読まれるとよい。底辺臭が濃厚に立ちこめている。あまりの芳しさに頭がクラクラするだろう。
同じ日本語がこの人たちには通じないと思うに違いない。関わりを持たないことが唯一の自衛策だと,たちまちのうちに悟るだろう。
● たかが鉛筆の持ち方程度のことと言ったのだが,この人たちは鉛筆の持ち方などどうでもよかった。秋篠宮家を叩ければ,材料は何でもよかったわけだ。
いや,ぼくが愚かだった。関わってはいけない人に関わってしまった。この種の失敗は,これが二度目になる。後悔と後味の悪さに襲われている。
● 乗りかかった舶なので,鉛筆の持ち方についてぼくの意見を述べておく。
鉛筆は「正しく」持つためにあるのではない。それを使って,書いたり描いたりするためにある。問題にされるべきは,「正しく」持てているかではなくて,何を書(描)いているか,どれほどのものを書(描)ける能力があるのかだろう。
落書き程度の文章しか書けず,ポンチ絵しか描けない者が「正しく」持てても仕方がない。
● 鉛筆や箸を「正しく」持てることは,育ちの良さとは関係ない。躾のステージでもない。
もし,それが躾だとすると,そんな躾をしている家庭は,日本では数えるほどしか存在しないだろう。今は親自身が正しい持ち方を知らないからと言われるが,では昔の親は知っていたのか。
そんなことはあるまい。鉛筆の正しい持ち方を知ってるような親は,昔からいなかった。いや,昔ほどいなかった。そんなものを知ってるのはよほどの “高等遊民” だけだったのではないか。
● 学校で習うもの,教育の範疇に属するものだったに違いない。しかし,学校でしっかり教えているとは考えづらい。
これまた昔もそうだった。君は変わった持ち方をしているね,と言う教師は時たまいたが,言うだけであって,その先はなかった。
なぜそうなるかといえば,鉛筆の持ち方など,学校側も重視していなかったからだろう。教師自身,正しい持ち方をしているとは限らないのも,今だけの話ではない。
● ポストの人が,自分で語っているように「正しい」箸の持ち方をしているのかどうか知らないが,箸を「正しく」持って汚く食べる人がいる。大声で話しながら。ホテルのレストランを居酒屋にしてしまう輩じゃないか。こういうのが佃煮にするほどいる。
育ちの良さは自ずと滲み出るものだが,強いていうと,静謐を要求される場で,きちんと静謐を体現できるかどうかで測るのがよろしかろう。
ポストの人,それに群がる人にはおそらく無理だろう。親の躾がなっていないのだ。親もそんなことには思いが及ばない。つまり,そういうのを下層というのだ。
● 鉛筆の持ち方程度のことで,皇族を叩いて鬱憤を晴らした気になるのは,下層の証明として充分であろう。
と思ったわけだが,上述のとおり,鉛筆の持ち方はを問題にしたいのではなく,叩ける材料がたまたま鉛筆の持ち方だったということなのだな。
● 鉛筆の持ち方について私見を述べると,“自己流に勝る正統なし” ということになる。正しいとされる持ち方が気になるのであればネットに動画がいくらでも転がっている。その気になって取り組めば1時間もあれば身につくだろう。
しかし,可能であれば,自己流を洗練させるのが良い。その結果,正しいとされる持ち方に至るか,それに近い形になることはあり得る。
が,動画を見てこれが正しいのかと,イージーに切り替えようとするより,自己流にこだわった方がよいと思う。その過程で持ち方に “知性” が宿るような気がする。根拠はないが。
● しかし,たかが鉛筆の持ち方の話だ。サッサと「正しい」とされる持ち方に合流してしまえばいいんだよ,という意見に反対する積極的な理由は持っていない。
「正しい」持ち方を提唱する側にも,なぜ正しいのか理由を説明しているものがある。実地に試してみて,なるほどと思えるなら,それを採用すればいい。「正しい」持ち方があなたの自己流になったのだ。
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