手削りするとこうしてしまう。書きづらいし,人様に推奨するつもりはないけどね(推奨されてもしたがう人はいないだろう)。
● この状態にすると鉛筆の筆記音を楽しめるよ。筆圧をかけないで書く練習も自動的にできるよ。
いいこといっぱいあるよ。一度やってみなよ。大丈夫,これでも芯が折れることはないから。
● 特に筆記音を楽しみたいならぜひこの形に。Hi-uniのBでも芯をこの形にして芯先をキンキンに尖らせると,サリサリという筆記音を発する。黒鉛芯が紙と擦れることによって発する独特の筆記音。
その筆記音をいいものだと受け取るか,煩いと感じるか。後者の人はあまりいないだろう。ぼくも筆記音は好ましいものと感じている。鉛筆を使う愉しみの1つに数えたくなる。
万年筆にも筆記音はあるが(EFの場合ね。MやBではどうなのか知らない),鉛筆の方が確実に筆記音を奏でてくれる。奏でるという言い方がピッタリだ。なかなかいいものでしょうよ。
● 徒し事はさておき。じつのところ,鉛筆をバリバリ使う人なら,ハンドル式の鉛筆削りでは削れなくなったところで,次の鉛筆に乗り換えるだろう。鉛筆を削るために鉛筆を使っているわけじゃないのでね。
削る楽しみもたしかにあるのかもしれんがね。使うと愛玩するの線引きには難しいところがあるが,ここはドライである方がいいかもしれんよ。
● ただし,鉛筆とドライの相性はあまりよくないかもしれない。正確に言うと,大人になっても鉛筆を使っているような人は,ドライであることを拝する性傾の人が多いような気がする。
そのこと自体は良くもなければ悪くもない。ドライであることが良くもなければ悪くもないのと同じことだ。そこに価値の上下はない。
● ギリギリまで使うと,おっ,すげーな,と言ってもらえるかもしれない。特にそれを 𝕏 に上げると,“いいね” が付きやすい傾向があるような気がする。
ギリギリまで使うことが善だと思っている人が多いんだろうかね。善だと思っているのに自分ではなかなかできない人が多いのかもしれない。
● けれども,そんなこたぁどーでもいーやね。そもそもの話,ギリギリまで使うことを善だと考えるのが,わりと低俗な思い込みかもしれんし。
と言いながら,ぼくはギリギリまで使いますけどね。
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