2024年12月14日土曜日

2024.12.14 鉛筆ではなく,ミミックを使う工夫のつもり

● チョコチョコと使っている北星の赤軸鉛筆は補助軸が使える短さになったら,新しいのと交換する。補助軸を使える短さの鉛筆を何本も作っていく。要するに,ミミックのナンテンで使う用にしていく。
 これはノベルティで次の入手はないと思うので,伊東屋鉛筆の赤軸を後継として用意している。

● 三菱 Palette のピンクはコーラルに入れて使用中。これも後継はいくらでもあるぞ。
 とりあえず,次はコーリンのかきかた鉛筆だな。

● 黄色の消しゴム付き鉛筆はドロップスに。ミミックに入れてしまうと消しゴムは使えなくなるが,そんなのはどうでもいい。
 ちなみに,トンボ2558のBはいい鉛筆だと思う。

● トンボの MONO や黒のイートンペンシルはエボナイト(ショート)用。
 ミミックに入る短さにしないとね。それをどんどん作っていくわけですよ。

● でもって,uni 色の鉛筆は満を持してテンピョウで。それ以外のはペンギン,パシフィック,サイリンダーに任せる。
 単純な色合わせだけどね。こういう小さな楽しみを作ると,鉛筆を使っていく推進力にもなるでしょ。

● いや,鉛筆は黙っていても使うんだけど,以外にミミックを使わないんですよ。ポイント補助軸や伊東屋,クツワといった,安価だけれども実用性は抜群といったところを使っている。
 ので,ミミックを使っていく工夫ですね。

2024年12月11日水曜日

2024.12.11 いい鉛筆を使った方がいいですよね

● リアルの児童が使いかけた鉛筆を使い切ることから,手元の鉛筆を減らしていくことに決めたので,そのルールに従っているのだが,正直,使っていて面白くないこともある。
 現在使用中の鉛筆はBなんだけれども,その前に使っていたB(主にはトンボの ippo! と三菱の9800)に比べると,同じBでも2Bじゃないかと思えるほどに芯が軟らかく,筆線も濃い。

● Bにしては芯が太いなと感じるものもあって,芯を長く出すと折れやすかったりする。芯の減りも早い。いや,黒鉛を多くし,粘土を少なくしているからなのかもしれないのだけれども。
 一番困るのは,筆記感に粘っこさを感じることだ。低粘土ではない油性ボールペンたと同じで,長く書いていると腕が疲れてくる。
 筆圧の調整で粘っこさを逃がすことはできるのだと思うが,筆記に集中すると知らぬ間に普段の筆圧をかけてしまっているのだ。

● その中で唯一,三菱の Palette はさすがだと思う。BとあるがじつはHBじゃないのかと思いながらも,ミミックのコーラルに挿して使っている。
 自分のフランチャイズは2Bだと思っていたのだが,B罫のノートに几帳面に書いていくとなると,HBが合っているのかなと,少し弱気になっている。

● 筆線があまり濃いと消しゴムも汚れる。ということは,紙面も汚れやすく,消しゴムの消字性能も下がることになる。
 コピー用紙のような無地の紙に大きめの字でラフに書いていくのなら2Bか3Bでいいのかもしれないけれども,横罫ノートを使って罫線に沿って書いていくとなると,HBくらいがいいんですかねぇ。HBで筆圧をかけないで書いても,筆線は明瞭に残りますんでね。

● ま,そんなわけで,キョコチョコといろんな鉛筆を使って気分を変えている。
 今日は北星製の第一勧銀のノベルティと伊東屋のイートンペンシルを。北星はノベルティでも確かな書き味。イートンペンシルは先代のものかと思うのだが,軸の細さといい,書き味といい,北星のOEMじゃないかとの疑い(?)を捨てきれない。

● イートンペンシルはキャメル鉛筆が製造していると言われているようなんですけどね。消しゴムの取付け方がまったく同じ鉛筆がキャメルから出ているから。
 ともあれ。イートンペンシルは濃く軟らかいのに,なかなか芯が減らない。タッチも軽い。したがって,筆記速度も出る。かなりの優れもの。その芯はオリエンタル産業のものでしょうね。

● 何がいい鉛筆なのかは人によって違うだろうし,同じ人でも気分によっていい鉛筆は違ってくると思うのだが,とにかくいい鉛筆を使え。ハカの行き方がだいぶ違ってくる。
 さらに言うと,この国には安価でいい鉛筆が溢れている。選択に困って腰が決まらないほどだ。

2024年12月10日火曜日

2024.12.10 初代 uni を使ってみて

 ● 先日,入手した初代 uni を多少使ってみたので,その感想をば。Hi-uni がなかった頃(たぶん)の uni のBを,当時の日本最高峰はこれかと思って使ってみたわけだが。
 この滑らかさに当時の人たちは驚いたろう。さすがは50円もするだけのことはある,と思ったのではなかろうか。

● 今の感覚からすると,Bにしては硬い。濃さも含めてHBに近いか,と感じる。が,現行品と比べてみると,わずかに(現行品より)薄いかなという程度なんだな。
 軸も太く,気合いが入っているなという感じは受ける。ま,軸の太さと気合いは関係ないだろうけどね。

● そのうえで。初代 uni を使ったあとに北星9500のHBを使うと,uni の優位性はないなとも思う。三菱9800でも同じ印象になるだろう。
 1958年に uni が出てから66年。その間に安い普及品も長足の進歩を遂げているようだ。uni がその契機を作ったとは言えるのかもしれないが。
 ちなみに,初代 uni のBと9500のHBの濃さはほぼ同じ。

● 軸が太いがゆえに,初期の uni はミミックには入らない。エクステリバー・たんぽぽ補助軸,伊東屋,STAEDTLER,クツワも厳しい。
 唯一,ポイント補助軸にはどうにかこうにか装着可能。

2024年12月9日月曜日

2024.12.09 買い過ぎにご注意 2

● 「使う」というのはひとつじゃない。鉛筆なら,書(描)くだけが「使う」ではない。
 鉛筆だって立派にコレションの対象になる。8900の軸やダース箱の意匠の変遷を追う人もいる。コーリンにこだわって集めている人もいる。
 それも「使う」のひとつであるに違いない。鉛筆は書(描)くためのもの,というのは思い込みだ。

● が,コレクターも,圧倒的な量の鉛筆を書(描)くことに費やしてる人が通れば,道を譲るだろう。王道を行く者だからだ。
 収集という行為は,時間と小銭があればバカでもできる。何事かを書(描)くことを継続するより,たぶん,楽だ。だから,多くの人が収集に走る。
 結果として,多くの人が同じものを集めている。そうして,収集物の多さを競う,誇る。まことにどうにもクリエイティブ過ぎる世界が出来する。

● お金を残して死ぬ,買ったモノを使わないままで死ぬ,というのは,バイキング形式の食事で取った料理を食べ切れないで残すのと同じだ。食べきれないほど取るな。目が食べたがるのを許してはいけない。
 それは第一にマナー違反であり,第二にみっともないことだからだ。

● きれいに使い切って,ジャストのタイミングで彼岸に逝けるのは,よほどの幸運に恵まれないとできないことだろうけれども,そうは言っても程というものがある。
 程を超えて金やモノを残して死ぬのは,彼(彼女)がどれほど地位や名声を得ていようが,最後の最後で敗残の兵になったということだ。

● 理想はたくさん持ってたくさん使うことだろうが,たくさん持つことは令和の御代には簡単にできる。たくさん持っているからといって別に凄くはない。
 しかし,たくさん使った人は凄い。典型的にはお金に関して言えることだが,モノについても同じだ。

● モノの場合は,少なく持ってたくさん使うこともできる。鉛筆は使った分だけ消えるのだから,少なくしか持っていなければたくさん使うことはできないけれども,耐久消費財は少なくしか持っていなくても回転よくたくさん使うことができる。
 筆記具でも万年筆は耐久消費財に数えてよいだろう。2,3本しか持っていなくても,大車輪でたくさん使うことができる。逆に,100本持っていても使ったといえる程度に使ったのは10本しかなかったとすれば,ブッフェ台から取ってきた料理の9割を残してしまうのと同じだ。

● それはみっともないことなのだ。みっともないがゆえに,やってはいけないことだ。
 自分のお金を何に使おうと自由なのだから,何をいくら買ってもかまわないのであるけれども,そういうこととは別の次元で,買ったモノを使わないままで死ぬのは恥ずかしいことなのだ。
 それは自分を見誤ったということであり,自分の瞬間的な衝動を抑制できなかったということであり,つまるところ状況判断を正しくできなかったことを意味するからだ。

● さらに言い募れば,それは言葉の本来の意味において無能なのであり,自分の人生にきちんと落とし前をつける気概もないということであり,場当たり的な刹那主義でしか生きることができないことを意味するからだ。
 時間と空間を把握する能力に欠けるのだ。そして,最期に「恥」を残して死んでいくことになるのだ。

● 金とモノは使い切って死ね。使い切れる分しか持つな。それを完璧にできるのは神様だけだろうが,少なくともそれを放棄したような軌跡を描くな。
 と,手遅れかもしれないが,自分に言い聞かせないといけない。幸いにしてお金は少なくしか持っていないが,ノートと筆記具は持ちすぎている。特に,筆記具は3回生まれ変わっても使い切れないほどだ。

● まことにみっともないことだが,使うことのないまま残してしまうであろう万年筆やボールペンやジャンプペンや鉛筆が大量にある。それらが腐臭を発する前に,自分で破棄処分するのがせめてものこと。
 というわけで,まだ若い諸君,ぼくらは王道を行こうではないか。遠くまでは行けないかもしれないが,チンドン屋の世界に踏み込むよりは,まだいくらかはマシだろう。

2024.12.09 鉛筆キャップの決定版

● この鉛筆キャップ,いいですな。単独では販売できないほどにチープながら,今まで見てきたキャップの中で一番いいかも。使い勝手はまことに絶佳。
 嵩ばらない。転がらない。芯先を傷つけることは絶対にない安心の形状。キャップしたときの感触もしっかりと伝わってくる。

● あらかじめ削られた鉛筆に装着されて,コンビニで販売されてますな。鉛筆は要らないが,このキャップはあと3つほど欲しいぞ。
 いや,3つとはだいぶ遠慮した言い方だ。30個あったっていいわ。

● したらば。メルカリにこんな出物があってね。これをポチろうかと思案中。
 鉛筆はもう1本も要らない。すでに3回生まれ変わっても使い切れないほどの在庫を作ってしまっている。使えないのがわかっているのに,それ以上に買うのはバカの極みだ。だいぶ極めてしまったんでね。
 けど,キャップが欲しい。

● いや,どうにか抑え込みましたよ。キャップ自体は何十個とある。
 絶対にこのキャップに置き換えなければいけないといえば,モチのロンでそんなことはないので。我慢も憶えないとねぇ。


(追記 2025.01.05)

● まことにこれは鉛筆キャップの決定版と言いたくなるほどのもの。キャップはすべてこれに置き換えたい。かさばらないのもいい。
 ので,メルカリに出ていたこちらをポチッと。2558は優れた鉛筆だけれども,すでに1グロスほど溜め込んでいるので,鉛筆自体はもう要らない。けど,キャップ欲しさに,つい。

2024年12月8日日曜日

2024.12.08 0.7㎜の「鉛筆シャープ」

● 12月1日。川崎のミューザの隣のホテルに投宿。
 せっかく鉛筆メインの筆箱を作ったのに,作ったら気がすんでしまった。鉛筆は置いてきた。「鉛筆シャープ」をペンケースに入れて持って来た。

● 上はコクヨの Campus Junior Pencil。下は同じくコクヨの鉛筆シャープ。
 上の方が,軸がひと回り太いんですね。この “ひと回り” の違いはかなり大きい。
 「鉛筆シャープ」にはクツワの “ぷにゅグリップ” をかませようか。デフォルトでもどうにか行けそうではあるんだけどね。

● で,今日。「鉛筆シャープ」に “ぷにゅグリップ” を装着。
 鉛筆より気持ち太いので(初代uniよりは細い),デフォルトでも行けなくはない。が,装着した方が書きやすくなる。この形でペンケースに転がしておくことにしよう。

● 無理やり使ってみると,0.7㎜はなかなかよろしい。B罫に合う。
 ちなみに,シャープペンは安い方の樹脂製の鉛筆シャープが最善。これ以上,シャープペンに何を求めるのか。

● ただ,家ではまず使わないと思う。そりゃあ,あなた,使えば姿を消していく鉛筆が愛おしくなるというものでしょうよ。寡黙で献身的で主張しないのは,鉛筆をもって最右翼とする。
 人間どもは,バカなのに語って倦むことを知らない。バカなんだからせめて静かにできんのか。鉛筆を見習え(→お前もな)。

2024.12.08 プリミティブなアニミズム

● 今は使いかけの鉛筆を使っているのだが,自分で使いかけにしたものではない(それもこの後,使うけど)。すべて,リアルの学童が途中まで使ったものだ。メルカリの“鉛筆まとめ売り”の中に入っていたものがほとんどだ。
 学童が使ったものを最後まで使い切ってやるのが,目下のところの自分のミッション(?)になっている。

● 今使っている鉛筆は,顔も名前も知らないが,たぶん普通の女の子だったんじゃないかと思う(女児向けの柄の鉛筆も入っていたから)。
 その子が途中まで使って,中学生か高校生になってシャープペンに移行したのだろう,使わなくなった鉛筆をぼくが使っている。こういうのも縁だと思うので,ぼくが最後まで使って差しあげる。

● その子にも鉛筆にも妙な思い入れを持つ必要はないのだが,少なくとも鉛筆は,最後まで使ってやれば喜んでくれるのではないかと思う。鉛筆として生まれて来たものを,理由はともあれ所有した以上は,使い切ってやることが供養にもなる。
 そういうプリミティブなアニミズムを,ぼくは捨てられないでいる。万物に霊魂が宿るという考え方ね。

● 根が貧乏性なものだから,「モノを大切に」はけっこう沁み込んでいて,すんなり受け入れている。
 モノを大切にしなければいけないという考え方を根拠付ける理由となるものは2つしかない,と思っている。

● モノが稀少な時代であれば,そのままモノの稀少性がその理由になる。
 が,現代のようにモノが溢れ,たいていのモノは使い捨てる時代になると,上記のアニミズム以外にモノを大切に扱うべき理由は見当たらないと思う。

● モノが溢れるようになったのは,しかし,昭和も50年代に入ってからのように記憶する。それまでは黙っていてもモノが大切にされる時代が続いた。
 ぼくに限らず,現在老境にある人間は,モノは使い切るものだと思っているのじゃないか。モノがまだ稀少だった時代に思春期を迎え,その時期に価値観や人生観の大枠を作っているだろうからだ。

● ここから話が変わる。
 ただし,ぼくのような貧乏育ちは,高級なモノを手入れしながら長く使うことは苦手とする。手入れというのが苦手だ。
 手入れを前提とする高級品を使う機会を得ずに大人になってしまったものだから,手入れの仕方がわからないということもあるし,そういう世界の空気感を知らないからでもある。

● 貧乏育ちは面倒くさがりでもある。庭木であるとかペットであるとか,手入れや世話が必要なものは遠ざけたいと思う。
 貧乏育ちは子育ても面倒がるとまで言ってしまっては言い過ぎだろうけれども,子育ては面倒なものの代表ではある。案外,子育ても下手なんじゃないかとは思っている。ぼく自身のことですよ。