2024年12月9日月曜日

2024.12.09 買い過ぎにご注意 2

● 「使う」というのはひとつじゃない。鉛筆なら,書(描)くだけが「使う」ではない。
 鉛筆だって立派にコレションの対象になる。8900の軸やダース箱の意匠の変遷を追う人もいる。コーリンにこだわって集めている人もいる。
 それも「使う」のひとつであるに違いない。鉛筆は書(描)くためのもの,というのは思い込みだ。

● が,コレクターも,圧倒的な量の鉛筆を書(描)くことに費やしてる人が通れば,道を譲るだろう。王道を行く者だからだ。
 収集という行為は,時間と小銭があればバカでもできる。何事かを書(描)くことを継続するより,たぶん,楽だ。だから,多くの人が収集に走る。
 結果として,多くの人が同じものを集めている。そうして,収集物の多さを競う,誇る。まことにどうにもクリエイティブ過ぎる世界が出来する。

● お金を残して死ぬ,買ったモノを使わないままで死ぬ,というのは,バイキング形式の食事で取った料理を食べ切れないで残すのと同じだ。食べきれないほど取るな。目が食べたがるのを許してはいけない。
 それは第一にマナー違反であり,第二にみっともないことだからだ。

● きれいに使い切って,ジャストのタイミングで彼岸に逝けるのは,よほどの幸運に恵まれないとできないことだろうけれども,そうは言っても程というものがある。
 程を超えて金やモノを残して死ぬのは,彼(彼女)がどれほど地位や名声を得ていようが,最後の最後で敗残の兵になったということだ。

● 理想はたくさん持ってたくさん使うことだろうが,たくさん持つことは令和の御代には簡単にできる。たくさん持っているからといって別に凄くはない。
 しかし,たくさん使った人は凄い。典型的にはお金に関して言えることだが,モノについても同じだ。

● モノの場合は,少なく持ってたくさん使うこともできる。鉛筆は使った分だけ消えるのだから,少なくしか持っていなければたくさん使うことはできないけれども,耐久消費財は少なくしか持っていなくても回転よくたくさん使うことができる。
 筆記具でも万年筆は耐久消費財に数えてよいだろう。2,3本しか持っていなくても,大車輪でたくさん使うことができる。逆に,100本持っていても使ったといえる程度に使ったのは10本しかなかったとすれば,ブッフェ台から取ってきた料理の9割を残してしまうのと同じだ。

● それはみっともないことなのだ。みっともないがゆえに,やってはいけないことだ。
 自分のお金を何に使おうと自由なのだから,何をいくら買ってもかまわないのであるけれども,そういうこととは別の次元で,買ったモノを使わないままで死ぬのは恥ずかしいことなのだ。
 それは自分を見誤ったということであり,自分の瞬間的な衝動を抑制できなかったということであり,つまるところ状況判断を正しくできなかったことを意味するからだ。

● さらに言い募れば,それは言葉の本来の意味において無能なのであり,自分の人生にきちんと落とし前をつける気概もないということであり,場当たり的な刹那主義でしか生きることができないことを意味するからだ。
 時間と空間を把握する能力に欠けるのだ。そして,最期に「恥」を残して死んでいくことになるのだ。

● 金とモノは使い切って死ね。使い切れる分しか持つな。それを完璧にできるのは神様だけだろうが,少なくともそれを放棄したような軌跡を描くな。
 と,手遅れかもしれないが,自分に言い聞かせないといけない。幸いにしてお金は少なくしか持っていないが,ノートと筆記具は持ちすぎている。特に,筆記具は3回生まれ変わっても使い切れないほどだ。

● まことにみっともないことだが,使うことのないまま残してしまうであろう万年筆やボールペンやジャンプペンや鉛筆が大量にある。それらが腐臭を発する前に,自分で破棄処分するのがせめてものこと。
 というわけで,まだ若い諸君,ぼくらは王道を行こうではないか。遠くまでは行けないかもしれないが,チンドン屋の世界に踏み込むよりは,まだいくらかはマシだろう。

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