学童が使ったものを最後まで使い切ってやるのが,目下のところの自分のミッション(?)になっている。
● 今使っている鉛筆は,顔も名前も知らないが,たぶん普通の女の子だったんじゃないかと思う(女児向けの柄の鉛筆も入っていたから)。
その子が途中まで使って,中学生か高校生になってシャープペンに移行したのだろう,使わなくなった鉛筆をぼくが使っている。こういうのも縁だと思うので,ぼくが最後まで使って差しあげる。
● その子にも鉛筆にも妙な思い入れを持つ必要はないのだが,少なくとも鉛筆は,最後まで使ってやれば喜んでくれるのではないかと思う。鉛筆として生まれて来たものを,理由はともあれ所有した以上は,使い切ってやることが供養にもなる。
そういうプリミティブなアニミズムを,ぼくは捨てられないでいる。万物に霊魂が宿るという考え方ね。
● 根が貧乏性なものだから,「モノを大切に」はけっこう沁み込んでいて,すんなり受け入れている。
モノを大切にしなければいけないという考え方を根拠付ける理由となるものは2つしかない,と思っている。
● モノが稀少な時代であれば,そのままモノの稀少性がその理由になる。
が,現代のようにモノが溢れ,たいていのモノは使い捨てる時代になると,上記のアニミズム以外にモノを大切に扱うべき理由は見当たらないと思う。
● モノが溢れるようになったのは,しかし,昭和も50年代に入ってからのように記憶する。それまでは黙っていてもモノが大切にされる時代が続いた。
ぼくに限らず,現在老境にある人間は,モノは使い切るものだと思っているのじゃないか。モノがまだ稀少だった時代に思春期を迎え,その時期に価値観や人生観の大枠を作っているだろうからだ。
● ここから話が変わる。
ただし,ぼくのような貧乏育ちは,高級なモノを手入れしながら長く使うことは苦手とする。手入れというのが苦手だ。
手入れを前提とする高級品を使う機会を得ずに大人になってしまったものだから,手入れの仕方がわからないということもあるし,そういう世界の空気感を知らないからでもある。
● 貧乏育ちは面倒くさがりでもある。庭木であるとかペットであるとか,手入れや世話が必要なものは遠ざけたいと思う。
貧乏育ちは子育ても面倒がるとまで言ってしまっては言い過ぎだろうけれども,子育ては面倒なものの代表ではある。案外,子育ても下手なんじゃないかとは思っている。ぼく自身のことですよ。
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