2021年10月16日土曜日

2021.10.16 文具は安い

● 12日からまたダイスキンに何も書かなかったので,今日は4日分の追い書きをした。何を書いているのかと言えば,日記的なメモだ。ほとんど日記あるいは日誌といっていい。
 手帳におおよそのログは残しているし,さらに詳細(?)は写真入りでTweetし,最終的にはこうしてブログの形で残すのだから,ノートに何かを書くというのはやめてしまってもいいのではないか。

● と思うことがある。つまり,書くために書いているようなところがあるからだ。が,結局,やめないだろう。
 書くために書くのであっても,やめない。それが遊びになっているからだ。遊びをやめろと言われても(誰にも言われてないけれど)困る。

● この遊びは時間消費型ではあるが,金銭は消費しない。100円のノートに1,000円の万年筆で書いているのだ。じつに安いものなのだ。
 仮に3,000円のノートに30,000円の万年筆を使ったところで,やはり安いと言っていいだろう。30,000円の万年筆が5年もつとすれば,月あたり500円。かなりの量を書く人であっても,ノート1冊で2ヶ月はもつだろう。3,000円のノートなら月あたり1,500円。併せて2,000円にしかならない(ぼくの場合だと67円)。
 これでひと月楽しめるのだから,とんでもなく安い趣味であり娯楽であるのだ。

● 文具は安すぎるのだ。はるかな昔は,ノートもペンも庶民が持つことは叶わないものだった。貴族や修道士など,ごく限られた浮遊階級,知識人層の特権だった。それが今は,貴賤を問わず誰でも持てるようになった。
 まぁ,文具に限らず,何でもそうなのではある。映画だって昔は相当な贅沢品だった。今は,AmazonプライムやNetflix,U-NEXTで見るのであれば,タダ同然と言いたくなる料金で好きなだけ見ることができる。

● 米のメシだってそうだろう。昔は銀シャリと呼ばれたのだ。誰でも食べられるものではなかった。衣類でいえば,ダウンジャケットも完全に庶民のものになった。カシミアのセーターもそうかもしれない。価格帯には相当な幅があるにしても,ともかくぼくらの手の届く値段になった。
 コーヒーや紅茶もそうだろう。もっと言えば,砂糖もそうだ。教育も典型的にそうだ。書物もしかり。
 かつては高嶺の花だった品物やサービスの価格が下がることを大衆化というのだが,ほとんどすべてのものが大衆化したといっていいくらいになった。

● 現在の生活保護世帯の暮らしは江戸時代の大名のそれよりも高水準とは言わないけれども,武士階級の平均よりははるかに上のはずだ。
 唯一違うのは,当時は人間の値段が考えられないくらいに安かったから,人を使うことができた。それだけは今はできない。相当以上に富裕でなければ,使用人は雇えない。
 人を使いたいのであれば(使いたいと思う人はあまりいないだろうが),会社という組織に属してそのトップに登りつめるしかない。そうすれば,会社のお金で出退勤のための運転手を雇えたり,秘書を使うことができるようになる。

● 嫁という立場の女性が嫁ぎ先の使用人だった時代は,さほどに昔のことではない。これも人の値段が安かったからこその悲劇だ。
 今,これはあり得ない。嫁は嫁ぎ先にとっての賓客だ。

● そういったことはあるのだけれども,モノは安くなった。サービスも安くなった。特権財はほぼ消えたといっていいのではないか。強いて言えば,貴金属の一部くらいか。
 あとは,1,000円の万年筆と30,000円の万年筆の違いのようなものであって,これはもう,ぼくに言わせれば誤差の範囲といっていい。1,000円と30,000円とでは30倍ほども違うけれども,両者の品質に30倍の違いのあろうはずもない。

● ぼくらはあたりまえになったものに,価値を見出しにくい。価値とはすなわち稀少価値であるからだ。価値とは稀少価値のことであり,稀少性こそ価値の源だと考える。
 美人に価値があるのも,美人は少ないからであるのだし,東大に価値があるのも(ないという人もいるかもしれないが),東大生になれる人は少ないからだ。
 お金持ちになりたいと願うのも,お金持ちが少ないことが理由ではないか。お金持ちの実質に憧れるのではなく,お金持ちの稀少性を手に入れたいからではないか。

● 多くの人はお金持ちと同じ生活をしているのではあるまいか。彼らは松阪牛を食べるのに対して,ぼくらはオージービーフかもしれないが,両者にどれほどの差があろうか。流通の技術革新の恩恵をこうむるのは,オージービーフを食べているぼくらの方だ。
 彼らはベンツに乗っているのに対して,ぼくらは軽自動車かもしれないが,ベンツができることと軽自動車ができることは同じだ。ベンツが空を飛ぶわけではないし,水に潜れるわけでもない。

● あるかないかの差を過大視して騒ぐのも,豊かな社会の遊びかもしれないが,あまりそうしたことに右顧左眄しないで(つまり,そのわずかの違いを強調して煽るのが,資本の論理というやつかもしれないではないか),大衆化の恩恵をしっかりと享受すればよろしいのではないか。
 かつての日本人の多くは持つことも叶わなかったノートもペンもすこぶる安く手に入るのだから,その安い道具を使ってしっかりと遊び倒す。横を見て他の人と比較するのはやめる。

● 現在は安いお金でちゃんと遊べるいい時代だ。相対的にお金の価値は著しく低下してもいる。お金をたくさん持っている人も,お金を持っているというだけにとどまっていては,自分の価値も下がるしかない。
 重ね重ね,良い時代になったではないか。というか,良い時代に生まれあわせたではないか。このうえは,遠慮することなく,その良い時代の果実を頂いて行こうではないか。

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