● 先日,測量野帳60周年記念のテンプレートを買ったカルトレリア沖縄店を再訪。
ここにしかないという商品ではないのだけれども,ジョッターが置いてあってね。けっこう惹かれるわけですよ。
ジョッターというのは,とっさのときにメモをとるのに使うもの。そのための道具はジョッター以外にもいくつもある。
● たとえば,ロディアのようなメモパッドもそのためのものだし,ダイゴーのジェットエースもその用途に使うもの。無印良品のパスポートサイズのメモ帳もそうだ。
それらもひととおり買っているんだけど,使ったことは一度もない。1週間ほどジェットエースを持ち歩いてみたのだが,結局,使うことはなかった。
パスポートメモ帳に使えるエルメスのカバーがある。そのカバーを付ければ使うかと思ったのだが,宝の持ち腐れにもなりゃしない。
● 思いついたら即メモというのが,そもそもぼくには分不相応というか,要らないもののようなのだ。
習慣として身につかないという以前に,何かを思いつくということがない。それを必要とする仕事や生活をしていないからだ。
● もうひとつ,スマホがあるからだ。たとえば Twitter をメモ代わりに使っている人は多いと思う。公開するわけにはいかないメモは GoogleKeep を使えばいい。“ツイメモ” という手もある。
スマホの方がメモするのに要するアクションが少なくてすむし,スマホなら意識せずに持ち歩いている。
● そこまでわかっているのだけれども,依然としてジョッターに惹かれるのはなぜか。
その理由もはっきりしていて,ジョッターという道具はクリエイティブ系の人が使うものというイメージに加えて,貴族的な雰囲気をたたえる形をしているからだ。
ジョッターでメモをとるという行為にはスノビッシュな雰囲気があるのだ。ジョッターを使っている自分というイメージを描きやすいのだ。ジョッターでメモをとるクリエイティブな俺,という。
しかし,現実の自分はクリエイティブでもないし,もちろん貴族的なものが似合うはずもない。困ったものなのだ。
● もうひとつ。ジョッターを使うということはノートではなくカードを使うことでもある。若い頃に梅棹忠夫『知的生産の技術』を読んだ人なら,自分もカードを使ってみようかと思ったはずだ。
京大型(B6)カードかどうかは別にして,実際にカードを使ってみた人も多いだろう。そして,挫折に至るというわけだ。
大量に溜まったカートを整理して保管するのが厄介であろうことはすぐにも想像がつく。そのあたりについても『知的生産の技術』は解説しているのだが,そのとおりにできる人はすでにして選ばれた人だ。
● カードはフィールドワークをする研究者には向いているのかもしれないが,市井の凡人には手に負えないものだったりする。が,そういうことをついつい忘れてしまう。現実離れした期待値を自分に対して抱いてしまう。カードを使うことによって,生活の質が変わるほどに知的生産性が向上するのではないかと思ってしまう。
現実は期待値によって動くのではないし,幻想はあくまで幻想なのであるから,落ち着く先は自ずと決まってくる。
● ということではあるのだが,ジョッターという製品がずっと生き残っているのは,自分を適正に把握できない人が連綿と生存していることを表すのだろう。ジョッターを買ったはいいが,使わずに死蔵している人がどのくらいいるだろう。
いや,人様のことではなく,自分のことだ。その轍を踏むのはわかりきっている。ジョッターを購入するのは思いとどまった。
● というか,だいぶ前に,とてもポケットには入らない分厚いジョッターを買ってしまったことがあるんですよ。
もちろん,一度も使わないまま,今日に至っているわけです。
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