● 仕事を引退したら手帳を変えるつもりでいた。今使っているのは能率手帳(のシステム手帳版。BindexのNO.011)。引退後に使うのはA6サイズの薄いマンスリーを想定していた。百円ショップで売っているようなやつ。
それをA6のCampusと一緒にSYSTEMICに挟んで使えば,手帳とメモ帳をひとつにできる。引退後はそのスタイルで行こうと思っていた。
● 引退すれば仕事上の予定は自動的に消失する。今でも仕事のために手帳を使っているとは言えない状態なのだが,引退後は完璧にそうなる。残るのはプライベートな予定だけ。ぼくの場合だと,コンサートとか映画とか。
それらはたぶん憶えていられる。好きなことだから。あるいは,カレンダーに書いておけばいい。手帳を使うにしてもウィークリーは要らない。マンスリーで充分だ。
● が,実際に手帳を変えることなどできるのか。もう何十年も同じ手帳を使ってきた。長年連れ添ってきた古女房のようなものだ。
仕事を離れたからもう必要ない,などと切り捨てることができるだろうか。
● 仕事を辞めた後も,BindexのNO.011を使い続けるかもしれない。ここまでのスペースがある手帳は明らかに要らない。
が,それを言うなら,今だって要らないのだ。今だってすでにメインの用途はプライベートに移っているのだから。
ということで,どうなるかわからない。楽しみなことだ。
● 書店に行くと,『Asscie 手帳フル活用術』という手帳ムックが平積みになっている。『Asscie』は年に1回,手帳特集を組んできた。それを集大成(あるいは取捨選択)したものだと思う。安いものだし,買おうかと思ったのだけど,買わないでいる。
たぶん,すでに読んでいる(見ている)はずだし,Asscieだから仕事手帳の話で満ちているはずで,ぼくのように第一線からはすでに退いている者にとっては,場面が重ならないだろう。
仕事から退いているというのをあまり行動変化の理由にしない方がいいとも思うのだが,手帳で細かいスケジューリングをすることはあるまい(今までもやったことがあったか)。
● 手帳の使い方は,これまで「ほぼ日」が提唱してきたのが本流であるべきだと思っている。愉しみとしての使い方。手帳で遊ぶということ。
言葉を換えると,Instagramに上がっているような使い方。それに対して,ぼくは何度か揶揄する言い方をしてしまっているのだが(緩いだけの使い方とかね),結局のところ,そうした使い方ができるのを幸せというのだろう。
● 生産性を上げるための手帳術に没頭する時期があってもいい(というか,あった方がいい)と思うのだが,いつかは“遊び”に至らなければいけないものだろう。
いつまでも生産性にとどまっていてはいけない。若いときから遊び一辺倒の使い方しかしていないというのも,何か違う気がするが,それはぼくが前世紀の時代風潮から自由になれないでいるせいかもしれない。
● しかし,ぼくがここまで言ってきたことは,つまるところ外部基準に依拠していて,常識の範囲にとどまっている。いい子の範囲内というか。ジャンプがない。新たな何ごとかを付加していない。
そもそもが手帳本を買おうとしている時点でダメだよな,的な。人の経験知を参考にした方が効率がいいということはあるにしても,その効率を超えるような何かを持っていないとダメなのだろう。人の経験知など参考にならないくらいの,強烈な何か。
すごい人は突き抜けているのだと思う。その突き抜けは勘違いによるものでいいのだ。勘違いでいいから,人の経験知など吹っ飛ばすような強烈な何かを持っているといい。正確に言うと,持っていると思い込めればいい。
● 教科書や参考書を求めているようでは二流どまりだろう。さらに敷衍すると,自己啓発書を読んでいるようなヤツはダメだろう。
自分は二流どころか三流にとどまってしまった。それが老境にさしかかる年齢になっても変わらない。
それがつまり,自分の器量というか排気量なのだ。器量や排気量は生まれつきのもので変えることはできない,とは思わない。思わないが,自分はこういうふうに来てしまった。こういうふうにしか来れなかったのかもしれない。
● って,話が手帳からずいぶん大きくなってしまったな。
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