● ノートに書く量ということに限ってみても,波がある。「開きやすいノート」に替えてから大きな波が来ている。測量野帳にしてからもそれが続いている。
ノートを替えたから波が来たのか。替えなくても来たのか。
● 波の具合は百パーセント内発的なものではない。環境の影響を受ける。その限りで波は操れるものだ。
が,環境をどういじってみても,如何ともしがたいものでもある。その限りで波は操れないものだ。
● しかし,“書く”なら,調子が出ないときは,ペンやノートを替えてみるという一手は指してみるべきだと思う。巧く行くかどうかはわからないけれども,可能性はあるわけだから。
「開きやすいノート」に替えて筆記量が増えたのは,たぶん,替えたこと自体によるものだ。替えると変化がある。その変化を書いているわけなのだが。いちいち書くまでもないだろ,そんなもの,という意見もあるだろうけどね。
● ノートが変わればいくつかの筆記具も試してみたくなるし,それによって目の前の風景が変わる。見える風景が変わると,書く量を増やす効果がある。カフェに行って書くと,何だか知らないけどたくさん書けるのと同じ。
逆にこのまま測量野帳を使い続けると,ダイスキンを使い続けたときと同じように,まったく書かない日が続くこともあるようになるのだろう。
● 実際の話,そうした変化によって増えた分というのは,どうでもいい内容ばかりになるのかもしれない。ぼくの場合はどうやらそうだ。
だから無意味かというと,そうとも言えない。少なくとも,マンネリが途切れる。ノートを使うというそのことに勢いがつく。気分がよくなる。その効果は無視できない。
● どうでもいいことが,そうではないものを引っぱってくることもあるかもしれない,と思う。自分の中に眠っていたものが,どうでもいいことのどこかに付着して表に出てくることもあるのではないか。
その眠っていたものもさほどのものではないのだと思うけれど,それを引きずり出せたときの快感というのはあるように思う。
● だから,時には目先を変えた方がいいのだろう。安定は停滞につながるという言われ方は,こうした些細なところでも成立するのではないか。
ぼくの場合は,比較的初期に,ダイスキン+Preppy というスタイルでサッと安定した。が,いったんできあがった安定は壊した方がいいのだろう。で,別の安定を目指す。その繰り返し。
● 安定がもたらす実りというのは,あまりないのかもなぁ。
だから,ダイスキンを大量に買いためて在庫を作ってしまったのは,あまり良くなかった。あの頃,ダイスキンはいつまであるかわからなかった。ので,見つけると買っていたんだけど,それでもそうすべきではなかったか。
制限が安定を妨げてくれる。その制限は善であるのかもしれないのだ。
● と,些細なことを大げさに語ってしまった。目先を変えてみるって,たんに方法論の問題だと思う。それ以上の意味などあるわけがない。
が,方法が自分の見える世界を決めるかもしれない。
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