● 昨日から無印「開きやすいノート」を使い始めている。常用しているプレジールの他に,いくつかの筆記具を試してみようと思って,持っているペンを出してみたんだけど,けっこうな数のペンが出てきた。
自分はノートとペンをひとつずつ決めて,ずっとそれを使っているタイプだと思っていた。実際そうなんだけども,ペンも一生かかっても使いきれないくらいの各種ペンを,外国製も含めて,買っていたのだ。
● ノートは3ヶ月もあれば1冊を使いきることができる。が,ペンは大事に使えば10年単位でもつ(リフィルは買わなければならないが)。
おそらく,どちらのご家庭でも,かなりの数のペンがどこかに忘れられたり,捨てられたり,ムダに死蔵されているだろう。
特にそうしたムダは企業や役所で大量に発生しているのではないか。
● それあればこそ,現在の生産量があるのだろう。文具とは途中で飽きて使われなくなるもの。そういう宿命(?)があって,それを前提にして,メーカーも生産体制を組めている。大事に使われたら,筆記具の生産量は今の半分でも多すぎるかも。
あるいは滅多にない用途に使われるペンもあって(たとえば香典袋に名前を書くとか,便箋専用のペンとか),そういうものはたった1回使われて,あとはどこかに忘れられ,その用途が発生するたびに新たに買ってもらえる。
● メーカーにとってはそれでもいいのかもしれないけれども(よくないか),ペンにとっては不憫だなぁ。
百円ショップができて,ペンに限らず,文具は湯水のように使えるものになったから,その傾向は一段と大きなものになっているように思える。
たぶん,自分もそれに染まっているはずなのだけども,できれば大事に,その文具の寿命が尽きるまで目一杯使ってやりたいものだ。
● けれども。こうして使っていること自体がムダなのかもしれない。こんなことを書くのにノートとインクを使っているのは,それ自体がムダなのではないか。
たぶん,そうなのだと思う。ただ,それを言いだしてしまうと,人間が生きること自体がムダ,そのために地球の資源を使うのはそれこそムダ,人間の方を消してしまえ,ということになる。
● ムダは生きることに付きもの。というより,ムダをすることがすなわち生きるということ。ならば,浪費,ムダとわかるようなムダは取るに足らないムダなのかもしれない。
忘れられたり,(使えるのに)捨てられたりしている文具が多くて,それを前提に生産を続けている現状は,それはそれで無問題なのかも。
● が,そうだとしても,1本のペンを,たとえ安物でも,大事に使ってやりたいと思っているぞ。せっかくペンに生まれてきたんだから,ペンとして大事に使ってやる。
生まれや育ちや職業や役職や収入によって,人間に差をつけてはいけないように,ペンもまた高いか安いかによって取扱いに差をつけるべきではない。
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