● このブログのタイトルは「何を使って何に書くか」になっている。あまり考えないで付けた名前だが,今では変えようがなくなっている。
その「何」についてしか語っていないからだ。やれ,こんな鉛筆を買っただの,測量野帳をこれだけ使っただの,そんなことしか書いていないからだ。
● 本当は,何を書いているのか,どんなことをどういうふうに書いているのか,なぜかいているのか,書く効用はどこにあるのか,そういったことを語れればいいのだ。
が,そういうわけにも行かない理由がある。日記的な雑記を文章でダラダラと書いているだけだからだ。
● 日記的雑記といっても,じつはリアルからひと月以上も遅れている。手帳を見ながら何をしたのかを確認しつつ,思い出しながら書いているわけだ。
こうまで遅れてしまうと,忘れちゃいけないこと,かといって手帳に書いておくほどのものではないことを,備忘録的にメモ帳にチャチャッと書いておくようにしている。
● なぜこんなに遅れるようになったのか。理由はいくつか考えられるのだけども,第一には,ある程度の量を吐き出すことを自分に課しているからだ。
今は測量野帳(LEVEL BOOK)に鉛筆で書いているのだが,最低でも1日4枚(8ページ)は書くことにしている。日記だけなら小さい測量野帳でも1ページ,せいぜい2パージもあれば充分だ。それ以上に書くことなどあるわけがない。
● いや,それしか書かないのなら手帳だけですむ。手帳はA5のマンスリーを使っているのだけれども,極細ペンを使えばマンスリーの1日分のマス目に収まってしまう。
その詳細をノートに書くのも悪くはないのかもしれないが(そうやってページを埋めることもある),それはあまり意味がない。まぁ,意味ということを言いだすと,ノートに手書きしていること自体に意味なんてあるのか,という話になってしまうのだが。
● 実際,書かないで書かないで困ることなど何もないと思うし,暇だからやっているという側面が大いにある。
なので,意味があるのかないのかは問わないことにする。手帳に書いたことを詳しくノートに書くのは,書いていてもそんなに面白くないからやらない,ということだ。
● では,1日4枚書くのをノルマにしているのはなぜかと言うと,岡田斗司夫さんが紹介していた「
モーニングノート」的なことをやってみるかと思ったからだ。
只今現在,自分の頭の中にあるものをノートに書き出してみる。岡田さんによれば,毎朝A4ノートに3ページ書くらしい。出勤前の慌ただしいときに3ページも書ける人なんているんかと思うのだが(A6だと12ページになる),そういう決まりになっているらしい。
● 測量野帳はA6に近いのでA6換算でいいと思うが,1日に12ページ以上書いたことは数えるほどしかない。最高はたぶん20ページだったと思うが,それは1回しかない。
毎日が日曜日で,1日中でも書いていようと思えばそのようにできる環境にいてもそうなのだ。仕事や家庭を持っている人が,毎日,そんなに書けるとすれば,もはや人間ではなくてスーパーマンと呼びたくなる。
ただ,「モーニングノート」的な使い方をしているために,リアルから1か月以上も遅れているのにさほどの支障もない。もちろん,脳内にあるものを吐き出した日とリアルの日付が一致しているに越したことはないのだが,そこはあまり気にしていない。
● リアルから遅れるという代償を払っても,1日8ページをノルマにしているおかげで,測量野帳は年に40冊ほど消費できる。12ページ書ければ60冊を消費できる計算になるのだが,毎日が日曜日でもそんなには書けない。
それだけ書ければ野帳と鉛筆の消費量が増えて,ムダに溜め込みすぎたという贖罪意識もだいぶ薄まるのだが。何より,寿命があるうちに使い切れるぞ,と希望が湧いてくるというものだ。
「モーニングノート」を実践できている人がもしいるとすれば,ひれ伏す他はない。
● 頭の中にあるものを吐き出すといっても,同じことがまた脳内に湧いてくる。ので,同じことを何度も書くことになる。
書いたものを読み返すことはしていないが,もし読み返せば,自分の進歩のなさにつくづく嫌気がさすことだろう。同じ場所をグルグルと回っているだけなことを知らされる結果になるからだ。
● 脳内にあるものを吐き出すことの効果は,脳をリセットできることだと思う。外部に文字化して記録を残したのだから,安心して忘れることができる。
忘れるために書くのだ。忘れることができれば,脳内メモリに空きができる。軽快になる。メモリはいっぱいにしない方が快適に動くのはパソコンだけではない。
● が,シリアスな問題,気持ちを刺すようなことを文字にすることは,少なくともぼくはできないことが多い。
そういうものこそ,吐き出すべきだろう。吹き出せばスッキリする。ストレスを溜めないですむ所以であり,そういうものこそを吐き出すのが「モーニングノート」が狙うところなのであろうと勝手に思っているのだけれども,それをするためには心の強さが必要だ。
後になってから振り返るのはともかく,その渦中にいるときに,それを文字にするのは相当以上にハードルが高い。ので,当り障りのないことを書いてお茶を濁すことになりがちだ。
というわけで,なかなか思うようにはできていないのが実情ではある。
● どうしても他者の眼を意識してしまう。ノートは誰にも見せない,自分が生存中に処分して死後には残さないと決めても,他者の眼を完全に払拭するのは難しい。「他者の眼」は自分の中にビルトインされているのじゃないかと思うほどだ。
書いて吐き出せばスッキリする,というのは確かにそのとおりではあろうけれども,「吐き出す」のはそんなに簡単なことではない。
● まぁ,しかし。手で紙に文字を書いていくという作業じたいをぼくは好きなようで,ノートと鉛筆があれば退屈することはない。
誰とも会わなくても,自分と対話できればどうにか日々をやり過ごすことはできる(と思いたい)。その場合,書くという行為を介さないで,脳内だけで自分と対話できるかというと,それは無理な気がする。
「考える」も,書くという身体動作を伴わせないでできるとは思えない。
● ぼくのやっていることは紙と鉛筆で遊んでいるようなものだが,その遊びを「趣味」にできたことは,自分を褒められる数少いことのひとつだとも思っている。