● その青森のリゾート地(ありがたいことに,ここにいるのはほとんどが地元民)で,2人の女性が手書きで一心に何かを書いている。自販機で缶コーヒーを買うふりをしてチラ見に行ってしまったよ。
2人ともボールペンを使っていた。ひとりは赤インク。
そういうことに関係なく,手書きの風情というのはある。人生を捨てていない感。自分を諦めていない感。ヤケになっていない感。
● スマホやパソコンで作業してても同じ理屈のはずなのだが,手書きの姿勢はプリミティブだ。プリミティブな分,訴求力が強いんだな。
短い人でも18歳まで学校と呼ばれるところで,勉強なるものをやってきた。手書きを経験してきている。少年少女の頃の経験だから記憶の基底に留まる。手書き=勉強 のイメージができやすい。それが訴求力の強さにつながるのだろう。
● 手書き=「知的生産」の刷り込みもある。自分がやっていることを知的と言われるとこそばゆいものだが,学術や学問だけが知的なのではない。
夕食の献立を考えることも,実際に料理を作ることも知的な作業だ。スポーツも知的なものだ。身体知という言葉もある。
● が,何かを書いている姿が “知的” の代表だろう。その “知的” が持つ誘引力がある。
ぼくなんかは,夏目漱石の “高等遊民” を連想するのだが,“知的” が贅沢だった(大学進学率も低かった)時代を生きた昭和原人ならではの感想かもしれない。
● 訴求力の強さを作る3番目の理由は,手書きする人が少数派に属するからだ。誰もがやっていることは訴求力を持たない。
現に,上記の2人の他に,スマホをいじっている人もいたのだけれども,これは見慣れた光景になってしまった。スマホは大衆性のシンボルだ。あなたも大衆のひとりなのね,で終わってしまう。
ぼくもそうだが,ほとんどの人は大衆のひとりに過ぎないのだし,大衆のひとりであることは悪いことでも恥ずかしいことでもない。が,大衆のひとりでいては,大衆から注目されることはない。
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