2021年10月14日木曜日

2021.10.14 東武百貨店5階の文具売場で

● 「わたしのてちょう」が面白い。バーチカルなんだけど,時刻メモリがない。午前,午後,夜の3つに区切っているだけ。これでいいと思うわ。これくらい緩くてバーチカルというのがいい。女性に宛てた製品ですね。
 メーカーはハイタイド。「干支シリーズとして展開」しているらしい。前からあった手帳なのだろう。ぼくは初めて今日知った。

● レイメイ藤井のシステム手帳。deconaのM5はある。DavinciにもM5があるようなのだが,ここにはM6までしかない。
 M5に勢いがあると聞くけど,その勢いも女性が作っているものってことでしょうね。しかも,若めの女性が。

● ぼくは昭和原人なので,システム手帳を使うなら最低でもバイブルサイズだと思っている。システム手帳を使う以上は容れ物としても機能させなきゃと思う。
 何を容れるかといえば,一番多いのは紙もの。特に前売りチケットを容れておくのに便利。その際に折らないで容れておきたい。となると,バイブルサイズ以上が必要。

● M5では何を書くにも小さすぎるのではないか。見開き1週間だとすると,手帳として使えるだけの容量があるだろうか。
 メモ帳として使うのでも,1ページに1件を守れるだけのスペースがあるかどうか。ページを跨ぐのは少し辛い。

● というようなことを考えてしまうところが,原人の原人たる所以なのだろうとも思う。まず,以上のことは1冊主義を前提にするからだ。なぜ手帳は1冊にせよと考えるかというと,たとえば仕事とプライベートで手帳を分けてしまうと,ダブルブッキングの可能性が大きくなるからだ。
 要するに,手帳は予定を書いておくもの,主には仕事で必要なもの,と思っているわけだ。自分の現役時代をふり返ってみると,仕事よりプライベートの記載が多かったはずだが,それでも仕事優先の気風から自由ではなかった。

● けれども,M5を使う人の多くは,そういう使い方をしていないのだろう。若めの女性が抱く手帳に対するそもそものイメージが,昭和原人のぼくとは違うような気がする。
 1冊にこだわることはないだろうし,ひょっとすると,手帳とは手のひらに乗る小さなノートのこと全般を指す言葉だという認識かもしれない。日々の流れに沿って予定を書いたり,事跡を残しておくものとは考えていないのかも。

● 手帳というと普通のノートとは違う特別なものとぼくなんぞは考えてしまうのだが,若めの女性たちは手帳の持つ機能の特殊性にはあまり囚われずに,もっと自由に使う(遊ぶ)ものになっているのかもなぁ。
 手帳といえども自分の小道具一般に溶け込んでいる。小道具なのだから自分に引き寄せて,使いたいように使えばいい。小道具の方に自分からすり寄るのは,おかしい以前にあり得ない。

● よくはわからないが,ぼくのような原人とはベーシックなところで違っているのじゃないかと思う。で,これはもう常に必ず,若めの女性たちの見方の方が,ロートルオヤジより高いところにある。つまり,正しい。
 ぼくなんぞは昭和40年代に思春期の後期を過ごしている。その頃に身体的な骨格のみならず,価値観や考え方の癖のようなものがおおよそ固まっているはずだ。
 ぼくの価値観は昭和40年代(1970年代)の空気の中で作られた。その後,バージョンアップを試みたことはない。
 それゆえ,令和の現在と自分の価値観,考え方の間にはけっこうな乖離があるはずだ。つまり,ぼくは時代に添えていない。

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