2022年1月31日月曜日

2022.01.31 銀座 蔦屋書店

● 今日は月曜日だ。美術館,博物館はどこも定休日だろう。いや,そうでなくてもコロナでマンボーが出てるんだから,公立の施設は臨時休館のところが多かろう。
 が,ここは東京であって,民間の美術館や博物館ではないところで,小さな展覧会をやっているところがけっこうな数,あるだろう。そのひとつ,G-SIXの6階にある蔦屋書店にやってきた。

● 笠間焼きの展示販売をやっている。栃木の益子焼きと風合いが似ていると聞いたことがある。場所的にも近いし,益子では土が取れなくて,笠間から持ってくるのだとも聞いたことがあるのだが,真偽のほどはわかりかねる。
 で,実際の焼きものを見るわけだが,見ても正直わからない。焼きあがった器から産地がわかるものなのか。そこがそもそもわからない。益子焼きだって,昔のイメージで捉えると,えっ,これが益子なの,と思うようなのがある。

● ギャラリー(GINZA ATRIUM)では三島喜美代の展覧会が開催されている。銀座のこの場所でこれだけのスペースを展示のみに割いているのは,とても太っ腹だと思うのだが,そうやっても元が取れるんでしょうねぇ。
 「情報化時代や大量消費社会に潜む不安感や恐怖感を表現するため,新聞をシルクスクリーンで割れる陶に転写した」「マルチプル作品のような立体作品」と説明されている。「一見するとゴミのようなこれらの作品は,陶器という媒体を通じて不思議な存在感を放ち,情報が大量消費される現代に問いかけてきます」。
 何を問いかけてくるのかからわからない。これでいいのと問いかけてくるんだろうけど,いいも悪いもない。「大量消費社会に潜む不安感や恐怖感」って,大量消費社会の峠はもう越えたじゃないかとも思ってしまう。
 要するに,現代美術はわかりません,ということになってしまうんだよね。

● ここで販売されている文具(万年筆が多い)は,その多くが工芸品と呼びたくなるものだ。
 装飾の付いた万年筆には端から興味がない。装飾のある万年筆は使えない。使えないといっていいほどに,使いづらいだろう。使えない万年筆に意味があるのかと思ってしまう。
 それは自分が貧乏人だからだってこともわかっている。工芸品として眺めて楽しむというところに到れるだけの審美眼,心のゆとり,無駄への理解力。それが自分にはない。
 そもそも,工芸の価値というものがわかっていない。万年筆は書くための道具としか考えないから,装飾など万年筆にあってはならない,という発想の外に出ることができない。

● プラチナ万年筆100周年モデルの「Century THE PRIME」のプラチナ仕様は,2019年に限定100本でプラチナが出したものだが,その1本がここにもある。まだ売れずに(売れて補充したのかもしれないが)陳列されている。
 ✕✕歳まで生きるとして,毎日使えば1日あたりの使用料は✕✕✕円になるな,それなら買ってもいいか。今,1日1箱の煙草を喫ってる人は,5年半で煙草代が100万円になる計算だ。万年筆の100万円なんて安いものじゃないか。
 という計算をして自分を納得させようとする人がいますかね。あまり頭のいい人じゃないね。これ,買った人はどんな人で,その万年筆を今でも使っているのかどうか(それとも,眺めて楽しむ愛玩物にしているのか),こっそり調べて教えてくれないかと思うのだが。

● 上流の暮らしは自分には相性が悪そうだ。人には人の,上流には上流の流儀が当然あるのだろう。彼らの流儀に自分の流儀とぶつけてみて,どちらがいいか,どちらが優れているかと比較するのは,無駄以前に無意味だ。
 ただし,こうしたものは,水と違って,下から上に流れる。上流が模範になって,下流がそれに憧れることになる。
 蔦屋書店に来ると,ぼくなんかはけっこう疎外感を覚える。だったら行かなきゃいいじゃないか,となるわけだが,時々,足を踏み入れてしまうのは,下から上への流れのひとつの現れなのだよね。

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