2018年11月21日水曜日

2018.11.21 コクヨへのリスペクト

● 子供の頃,コクヨは大衆品の代表だった。最も多く使われていたから。何せ,皆,田舎のよろず屋で買うんだから同じものになるのだ。そのよろず屋で扱っているのがコクヨしかなかったんだから。
 原稿用紙もレポート用紙もコクヨ。だから,コクヨじゃないものを使っている子がいると,おまえ,すげーな,となった。

● 大人の世界でも,原稿用紙についてはコクヨを軽んじる風潮が残っているのではないか。満寿屋の原稿用紙じゃないんですか,的な。満寿屋や相馬屋も今ではだいぶポピュラーになっているようでもあるが。
 今はプロの作家でも,パソコンで原稿を書いている人が多いだろうから,原稿用紙はあまり使われなくなっているのだと思うけど,もし,ぼくが今,原稿用紙を必要とするのであれば,ありふれたコクヨを選ぶだろう。
 原稿用紙なんて何でもいいからじゃなく,コクヨへのリスペクトゆえだ。満寿屋のものがよりいいのかもしれないけれども,コクヨにすると思う。

● 便箋もそうだ。コクヨの「書翰箋」が広く使われていた。よろず屋にはそれしかなかったし,安かったからだ。
 だから,コクヨの便箋は大衆品=安物,のイメージがあった。大切な人に手紙を書くときには,もっと高くていいやつを使うべきだよな,などと生意気にも思ったものだ。
 が,そのコクヨの“安物”に何か不都合があったかといえば,特になかったと思う。

● 今でも状況は基本的に変わるまい。コクヨ製品は無個性の代名詞。ユニークな人は,小粒でもピリリと辛い,知る人ぞ知るの製品を使っている的な思いこみがあると思うし,自分は違いのわかる男(女)だからこれを使っているよ,と言いたい人もいるだろう。
 が,その思いこみこそが無個性というもの。大衆品,一般品として磨きをかけ続けてきた(であろう)コクヨの企業努力を,ぼくはリスペクトしている。

● ありふれたものを使って個性的な成果を生みだすのが,何といってもカッコいいではないか。プロという感じがするではないか。
 ノートでもペンでも,それ自体がユニークなものを使っている人って,それで満足してしまって,そこで終わっていると感じられる人が多くないか。もっと辛辣にいうと,自分は平凡だとどこかで自覚しているから,道具で自分に付加価値を付けようとしているのではないか。

● コクヨへのリスペクトというときに,もうひとつ感じることがある。自社が提供している製品に対する責任感のようなものを感じることがある。たとえ儲からなくても,需要がある間は供給をやめないという。
 綴じ紐の供給をコクヨが続けていることを知ったときに,そう思った。綴じ紐を今も使っているところは,そんなにないのではないか(そうでもないのかね)。さほどに儲かっているとも思えない(そうでもないのかね)。
 が,今でも一定の需要はあるのだろう。昔,その需要を見て取って製品を投入した以上,需要がある間はユーザーに不便をかけないという覚悟がほの見えるような気がする。ほめすぎだろうか。

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