2019年3月6日水曜日

2019.03.06 理想を受け容れることがなかなかできない

● 紙ペンで書くときの理想像は,そこいらの紙にそこいらにあるペンで書いていって,サッと保存して読み返せる状態にしておくことだ。
 それこそ,チラシの裏でも広告の切れっ端でも。ペンも一切選ばず,禿びた鉛筆でも極安のボールペンでもそこにあるものを使う。でもって,フォルダにでも放りこんでおく。達人とはそういうものではないか。

● が,たとえそれが理想であっても,現実的ではない。ノートとペンは決めておいて,いつも持ち歩いているのが,自分発の情報,自分着の情報を固定させておくための唯一の方法だ。
 のではあるのだけれども,理想は方法論の洗練ではなくて,無手勝流だと思う。

● たとえば付箋メモや付箋ノートを提唱する人がいる。付箋に書いてノートに貼っておくというもの。
 もちろんそうすることに何らかのメリットや利便性があるから,それを提唱しているのだろうけども,ぼくなんかはそこに原始に帰るといった趣を感じることがある。そこいらにある紙にそこいらにあるペンで書いて,サッと保存しておくという原始のやり方をソフィスティケートさせたやり方なのではないか,と。

● 書くことに関しては,道具は生産性にさほど影響しない。何を使ってもあまり変わらない。誰でもわかっていることだ。
 なのに,ほんとに小さなことに延々とこだわって,そのこだわりがブログやSNSの投稿になっている。ノートやペンなんて何でもいいよ,という正解に誰もが気づいているのに,その正解を見ないで,些細なことにこだわり,それは決して些細なことではないのだという言説が,次々にしかも大量に生みだされる。

● それは文具メーカーや文具を種にしてメシを喰っているライターや広告業者の利益に叶うからなのだが,それよりも人は些細なことにこだわりたい生きものなのだと考えた方が,得心がいく。

● 当然,それは文具に限らない。たいていのものはそうだ。
 車だって何に乗ってもそんなに変わるまい。軽でもベンツでもできるこどはほぼ同じだ。
 家だって豪邸と呼ばれるものをそんなに羨ましがることはないだろう。快適に住まうのに一定程度以上の広さは不要だ。
 洋服もしかり。ユニクロしか着れない人が,アルマーニやプラダを着ている人をいいなぁと思うことはない。さほど違わないのだ。
 美人の奥さんがいる隣人をそんなに羨ましがることもない。美人であっても,女は女だ。あなたの奥さんと五十歩百歩なのだ。イケメンのダンナがいる隣人も同じ。男はしょせん男でしかないのだ。

● ことほどさように,たいていのことは何でもいいのだとなってしまう。が,人は,その何でもいいという正解を認めることができない。
 それは耐えがたいことに思えてしまう。何でもいいを受け容れるよりは,羨ましがっている方がマシだと思ってしまうのだ。

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