2018年12月5日水曜日

2018.12.05 遊びが文具を進化させる

● 8日にまた池袋に行く予定にしている、となると,東武7階の伊東屋池袋店を覗くことになるだろう。そして,何も買わないまま店をあとにすることだろう。
 ダイソーノートとPlaisirで満足しているのだから,伊東屋で買うものはないのだ。

● 文具は使うものであって,語るものではない。伊東屋で物色している人の中には語る側の人が多いのではないか。
 語る人は(ぼくも散々に語っているのだが),使うことにおいて抜かりがあることが多いのではないだろうか。

● 合格体験記とか勉強法の本ばかり読んでいる受験生のようなものだ。そうしたものを読むのは悪いことではないのだが,それで終わってしまって肝心の勉強をしないのでは本末転倒だ。
 そういう受験生は意外に多いのではないか。かく申すぼくは,その典型だった。違和感なく勉強できていれば,勉強法に深入りすることもないはずなのだ。

● 文具も同様で,違和感なく使えていて,そのことによって仕事なり趣味なりで成果を出しているのであれば,文具について語る必要もないはずだ。
 しかるに,文具に関してはそれ自体が趣味の対象になり得るところが厄介だ。文具に向かうのは,それを使って何かをするためではなく,それを使うこと自体が最終目的になり得る。

● あるいは,文具をコミュニケーションの介添え役にしたり。文具を介して誰かとコミュニケーションをする。そのためには,あまり使われていない文具,珍しい文具が役に立つ。
 それを探しに伊東屋に来る。そういう人も多いのではないかなと思ってみる。

● 文具をコミュニケーションの介添え役にすることを,文具で遊ぶと言い換えてもいいかもしれない。そのコミュニケーションの相手は他人とは限らない。自分であるかもしれない。
 そういう人たちが現在の百花繚乱の文具文化(?)を支えているのかも。文化を進化させるのは遊びなのだ。道具として黙々と文具を使っている人(実用派)ではないのだろう。実用を満たせばいいのだとなると,ぼくのようにダイソーノートと千円万年筆でいいことになってしまう。

● 違和感なく文具を使って仕事に役立てている人はひょっとすると少数派で,遊び派が多数派なのかもしれない。
 遊び派が進化させた文具の恩恵を実用派も享受する。そういう流れのように思われる。

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