2025年10月22日水曜日

2025.10.22 地球儀とは不思議なものだ

● 地球儀とは不思議なものだ。得られる情報はあまりない。ザックリとこの国はここにあったのかと確認する程度。載せられる文字数も少ないから,詳細はわからない。
 飛行機でA地点からB地点に飛ぶときの最短ルートはを知ることはできるけれども,そんなものを知ろうとする人はあまりいないだろう。東京はずいぶん南にある首都なのだなとわかって,ホホゥと思うくらいのものだ。

● 「平面の地図では距離,面積,形のひずみがないように表現できないが,地球儀は地球と同じ球体であるため,その全てについて正確性を追求することが可能となる」ことによって得られる情報は,その人の職業や趣味によっては大きなものになるのだろうが,ぼくのような平凡な一般人にとっては,さほどに特筆すべきものではない。
 唯一,ほぼ日の「アースボール」だけはスマホアプリと連携して,詳細な情報を引き出すことができる仕様になっているようだが(エピゴーネンがいくつか登場しているようだ),従来型の地球儀では無理なことだ。

● 世の中は,ぼくと同様な平凡な一般人で満ちているものだろう。それでも,地球儀を傍らに置いている人は相当な数に昇るのではないか。
 彼らは何のために地球儀を持っているのだろうか。どのくらい使っているんだろうか。どういうときに使うんだろうか。

● かく申すぼくも,小さな地球儀を持っている。2代目だ。
 どういうときに使っているかと言われても,何にも使ってはいない。地図帳はしばしば見るが,地球儀は年に1回か2回,手に取ってクルクル回してみるだけだ。

● 「地球儀を回して世界百周旅行」ができるわけもない。詳細な情報を取れるわけでもない。にもかかわらずなぜ捨てないで持っているのかと言うと,部屋のオブジェ,アクセサリーとしてですかねぇ。
 絵を飾るのと同じような。ぼくには絵心がないから絵を飾る趣味もないのだけれども,地球儀は絵心を要求して来ない。しかも,オブジェとしてなかなか落ち着きがいい。

● 昭和の50年代くらいまでは応接間という言葉があった。自宅に客を通すための部屋を作る。普段は居間になっていたのだろうが,その応接間に百科事典や世界文学全集を置く。読むためではなく,見栄のためだ。あるいは重厚感を出すためだ。
 今からすれば,何でそんなバカなことをしていたのかという話にしかならない。しょせんは貧乏人の貴族ごっこに過ぎなかった。が,当時は大真面目にそういうことをしていたのだ。
 地球儀を置くのもそれと同じと言っては,いくら何でも言い過ぎの感がある。装置としても比較にならないほどに小規模だし,応接の機能は皆無だ。

● 結局,地球儀は実用品ではない。が,地球儀のたたずまいは気分を落ち着かせる効果がある(ような気がする)。
 たまに手にとってクルクル回していると,地球を掌に乗せている気分になる。塞ぎ込みがちなときには地球儀を回してみるといいのではないか。

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