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2025年5月9日金曜日

2025.05.09 ブログは消えるのか?

● So-net が3月いっぱいでブログサービスを廃止したことを,最近知った。So-net ブログを利用していた人は引っ越しに大わらわだったでしよ。
 テキストは問題ないはずだが,写真もまとめて保存できたんですかね。これができないと,引っ越すのは呪いたくなるほどに面倒だったはずだが。

● ネット上の無料サービスは突然なくなることがある。有料のものも同じ。Google のような大手であっても同様で,それは所与の前提としなければならないものだった。
 とにかくフロンティアを切り拓くようなもので,過去になかったものを出すわけだから,上手く行くかどうかなんてやってみなければわからない。使う側もそういうものだと覚悟して臨まなければならない。

● ネット上のサービスは燎原の火のごとく広まるのも速いが,消えるのも同様に速い。ダメとなったらあっという間にダメになる。
 日本企業の So-net は,悪く言えば素速い決断ができずに,ズルズルと現状維持を続けてしまったのだと思うのだが,それでも結局,ブログサービスを捨てることになった。

● ブログって時代から見捨てられてますかね。人様に読んでもらうためにではなく,自身のためにログを残すには 𝕏 より便利なんだけどね。
 𝕏 って昔のやつは読めなくなるからね。Twilog 併用が必須だけれども,𝕏 になった際に不安定さが浮き彫りになったしね。

● かといって,Facebook なんてノイズが多すぎて使う気にならんでしょ。Instagram もこれに準ずる。 
 ノイズが多いというのは,たとえばFBの友だちが彼の友だちにバースデーメッセージを出すと,それがこちらのTMにも表示されてしまうといったことね。それを防ぐ手立てがない。
 ああいうものは祝われる人にだけ届けばいいものでしょうよ。あの仕様は耐え難かった。今はどうなってるのか知らんがね。

● もうひとつ。広告という名のノイズ。しかも,個人情報を抜き取ったり,詐欺を働いたり,ウィルスをばら撒いたりする,かなりヤバいものでも,金さえ払ってくれるんだったら全部載せるよ的な拝金主義をザッカーバーグは体現しているのか,と思わせるようなところがあった。
 おそらく,反ユダヤ主義を助長するのに彼はひと役かったのではないか。

● 実際,ブログは読まれなくなっている。黎明期にはどうでもいい日記でも読んでもらえたろうが,今はそうではない。
 人様に読んでもらうことを第一義にするのであれば,ブログという選択はあり得ないものになっている。読んでもらえないのだから,アフェリエイトの手段にもならない。

● しかし,ブログは消えるかというと,そんなことはないとも思う。細々と残るだろう。少なくとも,現在まで生き残っている SNS サービスよりも長生きするのではないか。
 読まれなくてもいい,私は自分のために記録を残している,という人が,トータルすればけっこうな数に昇ると思うからだ。

2022年1月1日土曜日

2022.01.01 今年の目標???

● Twitter や Instagram で「能率手帳」や「トラベラーズノート」で検索して,ツイートなり投稿なりを読んでいると,書くことが好きな人,書くことを楽しんでいる人が多いのだな,と思う。
 Twitter や Instagram の性格ゆえかもしれないが,能率手帳の話題でもどうやって仕事に活かすかというよりも,どうやって楽しく使うかという方向でのツイートが多い。

● 元日のこととて,元日ならではの(1年の計は元旦にあり,的な)書込みが多い。頑張って下さい,別に応援はしませんが,という優しい気分になる。
 ので,ぼくも元日的なことを書いてみようと思う。今年の目標的なやつだ。といっても,志はすこぶる低い。社会のために貢献しようとか,そういう話ではない。

● 書くことを楽しむとなれば,キーボード入力より手書きということになる。ただし,最終的な保存形態はデジタルだと思っている。現状ではブログということになるのだが(note株式会社の note は多少なりとも読まれるに値することを書く人向けのものだと思っている),できる限りブログに移して,Googleの検索エンジンで全文検索できるようにしておきたい。
 自分のためのブログだ。人様に読んで下さいと言えるだけの内容は吐きだせない。かつまた,ブログやSNSで自分以外の誰かとコミュニケーションをしたいとは自分はどうやら思っていないようなのだ。

● だから自分の便宜のためのブログだ。だったらブログにするまでもないじゃないか,公開を前提にしないクラウドサービスもあるじゃないか,となるのだけれども,人に読まれることを意識した方が多少ともまともな文章になる。自分の尻を叩く効果もある。
 自分の端末に溜めていくだけだと,Googleの検索エンジンを使っての検索ができない(検索じたいはできるけれども)。自分が個人的に書いたものもネットにある夥しい情報の一粒として扱える方が,気分がザラつかないのだ。

● 記憶が鮮明なうちに最終形態にしておくのがいいのだが,それがスイスイできるなら苦労はない。何でもかんでもブログに残そうとしすぎているのだとも思うのだが,とても追いつかない。ブログにしていないメモや文章がノートに溜まっていく一方だ。
 毎日が日曜日でもそうだなのだ。というか,毎日が日曜日になってから,いっそうそうなったと思える。

● 溜まったものを解消するためのまとまった時間を取った方がいいのかもな。ノートを直近のものから過去に遡って読み返していく。溜まっているものを整理して,どんどんブログにあげていく。
 使い終えたノートは,できれば処分してしまう。その作業をしなければと思ってるんだよね。紙のノートなんていつまでも残しておくべきじゃない。だって,もうそんなに長くは生きないんだから(デジタルにしておけば,死期が迫ってからでもチョイチョイと消せる)。

● Twitterもそうだ。ツイートしっ放しになっている。ツイートもメモ代わりなので,ブログにできるものはさっさとブログにして,ツイートは削除してしまいたいと思っている。読んでもらえるのはTwitterの方なんだけど,ツイートはメモ代わりか備忘録なのでね。
 昨年の8月末にTwitterのアカウントが凍結されて,そこに置いておいたデータが取り出せなくなったのも利いている。それもあるので,Twitterに置きっ放しにするのではなく,ブログに移しておきたいと思うわけだ。

● すべてがブログになっているというのが理想。読んだ本も見た映画も,あるいは旅行でもその他なんでも,自分のブログを見れば内容を確認できるという状態にしておくこと。
 その作業をするためにまとまった時間を充てたいな,と。それが今年の目標。としてしまうと挫折確実なので,やりたいことの1つってことにしておこう。
 つまり,毎日が日曜日でもやることはけっこうある。これを充実した老後っていうのか。ちょっと違うような気がするね。

2021年11月15日月曜日

2021.11.15 ブログにして自分を見える化する

● 11日から14日まで,またノート(ダイスキン)に何も書かずに過ぎた。こういうときっていうのは,わりとリアルが充実していて,書く暇がない場合なのだよね,じつはね。
 ということなら,いいんだけどねぇ。

● ログは手帳に書いているから,ノートには書かなくてもOKだ。というより,手帳にパラパラと書いていることをノートに文章化して書いても仕方がない。たんなる二度手間でしかない。
 毎日何かしら書くことを目指すのではなく,そうした二度手間をやめることを考えなくちゃいけないのかも。

● が,文章で書くと,その書くという行為によって引っぱり出される事柄がけっこうある。それが予め頭の中にあったものよりも面白いものであることは,しばしばある。
 しかし,文章で書くんだったらパソコンの方がいいですかねぇ。そこに辿り着くまでの作業は手書きでやれよ,と。
 でも,図解とかマインドマップとか箇条書きとか,そういうものが苦手なんだよねぇ。文章化以前の作業も文章を書いてやっているようなところがある。

● でも,まぁ,ノートに何を書いているかといえば,日記・日誌的なことが一番多い。書かないで過ぎた数日間の方がむしろ健康的なのじゃないか,とも思う。

● ここから別の話になる。その日記・日誌的なノートもかなりの冊数になっている。それを第1冊目から読み返してみる必要がある。せっかく書いたのだから。
 全部吐きだして頭の中をスッキリさせることが書く目的の半ばだったのだから,ノートにあるのは自分の吐瀉物だ。自分のものとはいえ,吐瀉物を眺めるのは気分の良いものではない。気持ちがザラザラになる。
 そうではあっても,それに耐えて,一度は読み返してみるべきではないか。

● まだブログにしていないけれども,これはブログにしておいた方がいいというトピックが相当な数,残っていそうな気がする。
 それを全部ブログにしてしまいたい。過去の自分を自分に見える化しておきたい。ネットにあげるわけにはいかないものが多いはずだが,あげられるものは全部あげてしまいたい。

● ノートもこれだけの数になると,自分にとってもブラックボックスだ。ブログに替えたところで同様にブラックボックス化は避けられないのだが,ブラックの度合いがノートより薄くなる。
 ブログ化しておけば,そのすべてをスマホから見ることができるからだ。

● スマホはとにかく便利なものだ。見る,読む,聴くのに,こんなに便利なものはない。
 図書館を持ち歩いているようなものであり,CDの全コレクションと再生プレーヤーを携行しているようなものでもあり,映画館をポケットに入れているようなものでもある。

● が,自分のノートをブログ化しておけば,自分の事績をそっくり携帯しているようなもので,じつはこれこそがスマホの最大の利点になるものかもしれない。
 自分はそれを十全に使えていない。人様に読んでもらえるかもしれないというのは副次的なものであって,自分のためにブログ(という機能)をどう引きつけることができるか。

2019年12月9日月曜日

2019.12.09 ブログは終わったツール?

● ところでこのブログ,以前よりも明らかに読まれなくなっている。つまらなくなっているのかとか,自分でも飽いているところがあってそれが文章に出てしまっているのかとか,ま,色々と考えるところがあったのだが,そいういうことではなくて,ブログ一般が読まれなくなっているということだね。
 ブログはもう終わったツールなのかもしれない。読んでもらいたかったらSNSの方がいいというのは間違いないでしょ。ブログサービスを止めるところも出ている。

● 書く側とすれば,しかし,ブログにはメリットがある。TwitterのTweetをまとめてブログにすることがしばしばあるのだが,ブログにしたあとはTweetは削除したくなる。
 自分的にはブログが残っていればTwitterは要らない。ブログになっていればGoogleの検索エンジンで全文検索ができるし,それをしなくてもブログ側が整然とした形に整えてくれる。

● 自分が書いたものをデータベース化するにはブログが一番。今はデータベースとかアーカイブという概念自体が古いと言われることがあるようだけれども,書いた側とすればやはり残しておきたいのだ。
 われながら古い人間だと思うのだが,残らないのならブログにすることをしないだろう。端末のハードディスクに溜めておけばいい。
 アナログで残るのは厄介だが,デジタルは質量がないのだから,いくら残っても困らない。

● というわけなので,読まれなくなってもブログがなくなることはないと思う。
 読まれることの他に,書き手にとってはデータベース自動生成機能がブログの魅力であるからだ。

2018年8月3日金曜日

2018.08.03 ブログやTwitterはとんでもないツールだよね

● もはやあたりまえになって,あるのが当然と思っているブログやTwitter。とんでもないツールだよね。
 相手に何事かを伝えるとか,コミュニケーションとかじゃなくて,自分のために使うと割り切って,自分の役に立つ使い方を考えるのが吉。様々に使えるはずだ。

● テキストと画像を無尽蔵に溜めておけるのだ。いずれは動画の容量制約も外れるかもしれない。クラウドの典型だから,端末の変更や記憶メディアの不具合による影響も受けない。
 ある日突然にサービスが停止されて,あげておいたものがすべてパーになることも理屈のうえではあり得るわけだが,現実にはそういうことは起こらないだろう。バックアップを取る余裕は与えられるはずだ。

● GoogleのBloggerは,非公開に設定できる。ブログを非公開にできるメリットはいろいろとありそうだ。
 読めるのは自分しかいなくても,その自分が読むときにはGoogleの検索エンジンを使えるということだから。

● FBをやめることにした理由のひとつはここにある。FBはGoogleの検索を拒否する。FBの中では検索が可能だけれども,その使い勝手はGoogleの検索エンジンの比ではない。
 もし,FBがGoogle検索を受け入れてくれれば,ブログをそっくりFBに移行することもできたかもしれない。

● Facebookページを作るのは大仰だ。タイムラインか“ノート”を使いたい。非公開にする必要のないものはFBユーザーではない人たちに読まれてもかまわないわけだし,読まれては困るものは非公開(あるいは限定公開)にしたうえで,でも自分はGoogleで全文検索をかけられる状態にしておけると便利なのだ。
 ブログは全体を公開にするか非公開にするかしか選べないが(できるものもあるのかもしれないけど),FBは細かく設定できる。これでGoogle検索が使えたらと,今でも思っている。

● とはいえ,実際に読み返すことはほとんどないのが実際のところ。ここは努めて読み返すようにした方がいいと思っているんだけど。

2015年7月1日水曜日

2015.07.01 自分を情報化する

● 自分を情報化してネットに移行させたい。だけども,そのためにはどうすればいいのか。
 ブログをせっせと書いてどんどんあげたところで,とても自分をネットに移行させているとはいえない。

● どうすれば自分を情報化できるのか。方法が思いつかない。思いつかない以上は,今のやり方を継続するしかない。

● っていうかですね,生身の自分をネットに移行させるというのは,文字どおりには不可能だし,比喩としてもどこまでできるものなのか。
 ネットで自分が問わず語りに語りだすふうでありたいんだけどね。でも,自分が何事かを語っているところを動画に撮って,ネットに移せばいいというものでもないだろう。
 ブログじゃなくてYouTubeを使えっていうことではない。ぼくのイメージはそうじゃないんだよねぇ。

● 昔,藤子不二雄のアニメ「パーマン」にコピーロボットっていうのが登場してた。ロボットの鼻を押すと,自分と同じ容姿になる。学校に行きたくないときはロボットに行かせる。帰ってきたらおでこをくっつけると,ロボットの体験が自分の脳に移行する。
 こんなロボットがいたら,この世から鬱病は消えてなくなるかもな。

● そのコピーロボットをネットに作りたいということではない。ネットに自分のコピーを作ろうとするのは,生身の自分をネットに移行させるというのとイコールで,できる相談ではないし。
 イメージとしては自分のパーツをたくさん転がしておいて,そのパーツが偶然,勝手にくっついたり,向きを変えたりすればいいかなという程度なんですけどね。

2015年6月26日金曜日

2015.06.27 ダイスキンにしばしば書いていること

● これは前にも書いたよなとわかっていながら,何度もダイスキンに書いているテーマ(?)がある。自分をネットに移すということ。

● 自分を情報化してネットに移行させるというテーマ。つまり,リアルの自分は仮身だと感じられるくらいに,自分の考えとか好みとか何をしているかとか,そうしたところをどんどんネットに移して,自分はむしろネットに実在していると感じられるようにすること。

● なので,セッセとブログを書いている。「自分を情報化してネットに移行させる」といっても,元々がたいした自分ではない。ので,たいしたブログになるはずもない。それはわかっている。
 そうであっても,できるだけネットに移行させたい。

● その手段として,ブログが最適なのかどうかはわからない。ブログなんていくら書いたところで,自分の何を移行させることになるのか。それもよくわからない。
 けれども,それ以外の方法が思い浮かばない。

● 自分をネットに移行させるのが目的であって,ネット上で個対個のコミュニケーションをしたいと思っているわけではない。ネットで誰かとつながるっていう方面にはあまり興味がない。
 FacebookとかTwitterには,だから,食指が動かない。ブログだと書きっぱなしですむので,そこがいいと思っている。

● 長い文章を書いても文句は言われない(読まなければそれですむ)。独りよがりが許される。
 そもそもが,「自分を情報化してネットに移行させる」なんていうのも独りよがりだろうし,だとすれば,その方法も独りよがりなものであっても,特段の問題はないだろう。

● ならば,ダイスキンに書いていることをそっくりTwitterに置き換えてしまったらどうか。
 それはできない。ダイスキンにはネットに公開してはいけないことも書いているし,140文字とはいっても,それをスマホで入力するなんて,考えただけで気が遠くなる。
 しょっちゅう,スマホをいじっていなければいけなくなるのも,大いに困る。

2015年6月13日土曜日

2015.06.13 ノートを処分できないもうひとつの理由

● 自分の吐瀉物が溜まっているノートでも,過去を消すような気がして処分できない。
 処分できない理由はもうひとつあって,吐瀉物の中からこのブログのネタを拾うことがあるからだ。たいしたネタではないんだけども,助けられることはけっこうあってね。

● 溜まっているノートを全部読み返せば,まだそれなりの数のネタを発見できそうな気もする。でも,それをする気にはなかなかなれませんね。
 自分が吐きだしたものとはいえ,吐瀉物とつきあうのは気ぶっせいなものだもんね。ノートをネタ帳として使えるのは,現在進行形でそのノートを使っている間に限られる。

● ネタにした箇所は斜めに線を引いておく。ネタの二度使いを防ぐためだけれども,それで二度使いが防げるかといえば,ぜんぜん防げない。
 防ぐためには,ノートに書いてあること以外をネタにしないっていうのを徹底しないといけないわけだけど,それをしたところで防げるわけではない。
 なぜかというに,同じことを何度もノートに書いているから。つまり,同じものを何度も吐きだしているから。

● このブログでも,ネタの重複は自覚している範囲に限っても相当ある。自覚の外にある重複は,さらに多いだろう。
 これはもう仕方がないなと諦めている。

2015年5月14日木曜日

2015.05.14 文具ブログはあまたあるけれど

● ぼくからすれば驚異なんだけども,1日のPVが2,000とか3,000に達しているブログがある。しかも,扱っているのは文房具だ。
 万年筆をメインにしていたり,シャープペンに特化していたり,幅広く取りあげていたり,実際の使い方を紹介するものだったり,内容は様々だけれども,まぁ,ぼくからするとお化けブログと呼びたくなるものがある。

● 自分のブログとは何が違うんだろうと考えたくなりますな。
 豊富な写真とともに,具体的な情報を提供しているのか。
 マニア度の高さが受けているのか。

● リキの入り方が違うのかも知れないな。通り一遍でなぞっている程度では,ダメなのだろう。そんなものをわざわざ時間を使って読む気にならない。
 もっと鋭角的な興味を持っていなければならないという,初歩的なところに問題ありかなぁ。

● 入れあげるというところまで行っていないと,なかなか読んでもらえるブログにはならないのかもね。入れあげるというのは,偏向しているということで,バランスを崩している。あるいは,破綻を来しているかもしれない。そこまで行っていないと,人にアピールする度合いは弱くなるのだろう。
 堅実を目指してしまっていては,面白いものにならない。

2015年2月28日土曜日

2015.02.28 死んだら自分のブログはどうなる?

● ネットにあげたものは,自分が死んだあとも永遠に残ることになるんだろうか。永遠にっていうのは言葉のあやね。死後も長く残ることになるんですかねぇ。ちょっと気になるね。

● それを嫌がる人もいるかなぁ。残したくないって。
 そういう人は,自分の死期を悟ると,自分がネットにあげたものをすべて消去しようとするんだろうか。

● 逆に考える人もいるだろう。死後も残るんだったら,できるだけネットに移しておいた方がいいじゃないか,と。現金でもモノでも,移せるものならネットに移しておきたいよ,と。ぼくもそっちのほうに近いかな。
 ま,現金やモノは自分がいなくなってしまうんだから,残したってしょうがないけどね。

● ネットに置けるのは,質量を持たない情報(文字,音声,画像,動画)に限られる。むしろ,残したいのはそういうものだよね。
 であれば,できるだけ自分を情報化して,ネットに移しておいた方がいい。死後も生きたいというとんでもない望みを,形は変わるものの,叶える手段になり得るんじゃないか。

● 誰でも死後の影は薄くなる。ネットに置いておいたところで,いずれは忘れられるだろう。
 けれども,生前と同じ状態で,ネットのどこかにあるはずだ。ネットに置いてなければ,物理的に朽ちていくはずのものが。
 よほどの人なら,後世の人が記念館を作って保存してくれるだろうけど。

● ま,どっちにしたって,たいしたものは残せないわけだけど,それを言っちゃ話が終わるからさ。たいしたことがあろうとあるまいと,死んだあともそのまま残るって,すごくないですか。
 遺族の思いでの中に残るんじゃ,その遺族が亡くなったら終わりだけれども,そのあともずっとネットに自分が残るわけですよ。自分っていうか,自分が書いたものとか作ったものが。

● うーん。でも。ちょっと待てよ。やっぱりイヤかな。気持ち悪いかな,そういうのは。

2015年2月1日日曜日

2015.02.01 ログの最終形態はブログか

● ダイスキンに手書きで何でも書く。この方式が定着すると,もっと早くからこうしてればなぁと思う。ダイスキンじゃなくてもいいんだけど,ノートに手書きってのを。
 ぼくが,この方式を始めたのは一昨年の6月からなんだけど。

● それまでは長らくパソコンで書いていた。だから,書くのはもっぱら自宅に限られた。それをもっと早くに,ノートに手書きでやっていたら。
 いつでもどこでも書けるってのは,相当に気持ちがいいものだから。

● でもね,仕方ないですね。ワープロやパソコンに飛びついたのは,それが新しいスタイルだったからでね(なにせ,それ以前にはなかったんだから)。
 バラ色の未来が語られてもいたし。今までになかった何かが始まりそうなワクワク感もあった。これを使えば自分も一段高いところに出られるんじゃないかと思わされた(いや,勝手に思った)。

● 1枚のフロッピーに本1冊分くらいの文書は楽々入ってしまう。いつでも呼びだせて訂正や追記ができる。消しゴムなんか要らない。直したあとも残らない。すごいと思った。
 そのときそのときの魅力ってあるもんね。魅力って時代が作るってところ,ありますよね。

● そのとき,デジタルに移っておいてよかったなと思うところもあるんですよ。その頃書いておいたものを,けっこう,ブログに移行させることができたからね。
 つまり,ぼく的には,自分のログの最終形態はブログだと思っているわけですね。それがあるから,途中はノートに手書きがいいと思っているのかもしれなくてね。
 手で書いたのをキーボードで入力するのはさほど苦じゃないし,そこで内容を再考することもできるので,いったん手書きというのは悪くないなと思っていてね。

● ブログがなければ(最近までなかったわけだけど),やはりパソコンに入れておけとなるのかもしれない。
 その場合,誰も見ないわけだから,別に内容を再考する必要もない。だったら,最初からデジタルで入力してしまえってことになるかも。

● どっちにしても,アナログのままにはしておかないと思うんですよ。ノートに書いたメモの過半はデジタルになることはないんだけど,それは篩から落ちたものだからね。

2014年11月17日月曜日

2014.11.17 大量の文章を書かなければならなくなったら

● このブログのネタ(といえるほどのものか)はノートに書いたものから拾うことが多い。たまに頭からダイレクトにパソコンに移し換えることもあるけれども,その場合は記憶に残らない。下手すると,書いた本人も忘れてしまうことがあるかもしれない。
 ということなので,ポメラのようなデジタル入力器機を使ってみようとはまったく思わなくなっている。

● けれど。ぼくが売れっ子の作家になったとしたらどうか。その場合でもポメラを使わないでいられるか。
 相当量の文章を期限付きで書かなければならないことになったら,ノートにいわば下書き,ラフスケッチ,梗概を書いてから,パソコンで打つということをするだろうか。
 とにかくキーボードを叩き始めるってことになるのではないか。キーボードを打ちながら考える。たぶん,そうなるかも。

● そういう状況でもノートを使えていたら,それはそれですごいけど。あえて大きなノートではなく,小型のダイスキンを使って。半月で使いきるような感じで。そういうのに憧れるけど。

● いや,逆ですかね。そうなると,かえってノートが手放せなくなるんですかねぇ。ノート&ペンの機動性がいよいよ輝きを放つってことになるんだろうか。
 ま,そういう状況になることはないので,これ以上,妄想に浸るのはやめておくことにしよう。

2014年7月10日木曜日

2014.07.10 ブログを書くのは若さの保持に効果があるか

● iPhoneの取材(?)をさせていただいた女子大生3人組,レディ度が高いんで驚いた。普段,キャンパスにいるときの恰好とは違うんだと思うんだけど。
 女の子ってかなり早い時期からレディを装う術を知っているって感じがするね。DNAにビルトインされているのだと思うしかないね。
 取材者の立場で彼女たちと接触できるのは最も快適かもしれない。距離感もちょうどいい。もっと距離を詰めてしまうと,見たくもないところを見せられるんだろうし。

● 人として1対1で向き合ったら負けちゃいそうな気がする。何が違うといって,勢いが違う。生命力の奔流のようなもの。
 対抗する術はただひとつ。こちらも勢いを保持することだ。

● 願わくば,若者が集う場に身を置ける自分でいたい。それで違和感を感じないこと。自分でも感じないでいたいし,周囲の若者たちにも感じさせないようでありたい。

● そのために最も大切なことは何かといえば,おそらくだけど,好奇心を摩耗させないことだと思う。その好奇心を枯渇させないためには,これもおそらくだけど,出力を続けることが大事なんだろうな。
 その意味でいうと,ブログを始めたことは,自分で思っている以上に効果があるのかもしれない。出力の内容はいったん置いて,出力そのものを継続しているという点において。
 コエンザイムQ10とかレスベラトロールをサプリで摂取するより,ブログを書く方が若さの保持には効果があるかもな。

● 紙のノートに日記を書くという出力の仕方もある。けれども,それだと自分の中で閉じてしまう。外へ出す方が,効果が高いんじゃないかなぁ。
 ブログに限らない。TwitterもFacebookもある。出力の手段が無料で開かれているというのは,うん,ありがたい時代に生きているな。

● と言いつつ,愚にもつかないものを垂れ流している。よその高齢者が垂れ流しているものに閉口することもある。が,そういうのは読まなければいいだけだからね。自分のブログも同じだ。
 内容がどうのよりも,まず出力を継続することが大事。だから,読まれているかどうかも,とりあえずは二の次の問題。

2014年2月27日木曜日

2014.02.17 自分にしか公開しないブログ

● 14日の昼から雪が降りだし,その日の夕方から交通機関に影響が出始めた。ぼくが乗った電車も途中駅で止まってしまった。仕方がないので(っていうか,それをいいことに)その駅の近くの居酒屋で飲んじまった。
 ちょうどそのあたりから風邪かなっていう自覚はあったんだけどね。おかげでその後の2日間はほぼ寝て過ごすはめになった。
 こうなると,ルーティンがつまり生活そのものなんだなぁと思いますね。速やかにルーティンに復帰することが大事でしょ。

● 昔,Sidekick95というPIMソフトをいたく気に入って愛用していた時期があった。マイクロソフトがOutlookを出してから,消えてしまったけど。
 PIMとはいえ,スケジューラは使わなかった。何がよかったかというと,カード型データベースとメモ帳を同じような感覚で扱えたこと。
 データベースに載せやすいもの(たとえば,蔵書リスト)とそうではないランダムなメモを並行的に扱える感じが気持ちよかった。

● で,自分のブログを見ていると,そのSidekick95の感覚が甦ってくることがある。全体がひとつのファイルで,個々のエントリーをカード型データベース的に抽出できるような感じ,といいますか。当然,全文検索も可能。
 自然に自分が扱いやすい形でランダムなメモが溜まっていく。自分のブログの一番熱心な読者はたぶん自分だろうから,これは何より自分にとってありがたい。

● そこで。人さまにはお見せできないような文章もこんな形で整理できたらいいなと思った。Evernoteのようなクラウドサービスを使えばできるのかもしれないし,ひょっとするとFacebookを使っても可能なのかもしれない。非公開設定もできるんだろうから。
 でも待てよ。ブログそのものでできるじゃん。非公開設定はブログでもできるんだから。

● 15年も前になるけど,美崎 薫『TiPO・PLUS究極活用術』(工作舎)を読んだことがある。TiPO・PLUSっていうのは,たしかセイコーインスツルメントが出したPDAで,OSがBTRON。
 買うことはできなかったんだけど,BrainPadってのが謳い文句で,けっこう惹かれたものだった。
 「実身」「仮身」という言葉が使われていたけれど,要はリンク。自分が作った文書をどんどん溜めていって,相互にリンクをはっていく。それが一定数を超えると,ググッと創造力を刺激するみたいなことが書かれたいた(と記憶している)。

● 同じことがブログでもできるわけですからね(ブログじゃなくてもできるんだけどさ)。自分しか見ないんだから,うるさいくらいにリンクをはれる。創造力を刺激してくれるかどうかは別にして。

● うっかり誤操作をするかもしれないから,正真正銘,人に見られちゃまずいものは扱えないけれども,ちょっと恥ずかしいといった程度のものは,自分にしか公開しないブログにどんどんあげていけば,あとはブログ側がよきに計らってくれる。
 じつにどうも便利っぽい。クラウド利用そのものだしね。端末を選ばないし,ブラウザがあればいいんだし。

● というわけで,さっそく,試してみることに。